指の根から春
ポケットに伸びかけた手が所在なげに浮いている。ついてもいない埃を払うと土方はまず喉に触れ、それから、咳払いするフリをしながら手で軽く口元を覆った。これで何度目だろうか。数えるのが馬鹿らしくなる程度には、先ほどから同じ行動――存在しない煙草を求め落胆する――をくり返している気がする。
風が吹き抜けて、机の隅に重ねておいた書類が宙を舞った。
部屋にこもり、たまりにたまった仕事を片付けていた土方を、上司である松平が訪れてきたのは昨日のことだ。遠慮なんて言葉は知らない。そう言わんばかりの勢いで戸を開け放った松平は、部屋に踏み入れてくるやいなや、
「明日あいてるな」
くわえていた煙草を親指と人差し指でつまみ上げ、ぶわっと煙を吐き出した。
「は?」
唐突な確認に、土方の口から疑問符がこぼれ落ちた。握ったままでいた筆から墨が滴り、埋まりかけていた紙に染みを作った。開き気味の瞳孔が丸くなっている。
「……なんだよ急に」
数秒の間をあけて発した質問に返ってきたのは、護衛、の一言だった。将軍様の妹君である、そよ姫様の護衛。どうやらそれが今回の仕事の概要らしい。
「江戸の外れに花畑があるとかでよぉ」
ヤニの染みついた天井に向かって先ほどよりも深々と煙を吐き出しながら、松平は言った。曰く、松平もよく知らないのだが、江戸の外れ、山の中腹だかにたいそう綺麗な花畑があるらしく、ちょうど見頃を迎えているのだという。
「どこで聞きつけたのか、行ってみたいってうるせーのよ」
「仮にも一国の姫になんつー言いぐさだよ。つーか」
真選組じゃなくても良いだろ。言いかけて、土方は口をつぐんだ。
話を聞く限り、近辺警護の者にでも任せておけばこと足りる案件に、真選組が出動するまでもない案件に思えるのだが、そよ姫といえば先月家出騒動を起こしたばかりである。早い話、飛火を恐れているのだろう。万が一の場合の責任を、真選組に負わせるつもりでいるのだ。
もっとも、こうしてゴチャゴチャ並べ立てたところで、松平が確認口調を使っている時点でこちらに拒否権がないのは明白なのだが。
「わかった。何人か見繕っておく」
あとで二番隊か八番隊あたりに話を持っていこう。そんなことを考えながら、土方は検分するように床に散らばったままの書類に目を向けた。
どうやら、体感した以上に風は強く勢いがあったらしい。パッと視線を走らせただけで顔が引き攣る程度には、書類がバラバラになっている。
(クソ、あんな所に)
加えて入口近くにまで飛ばされているものまで見つけてしまい、土方はたまらず舌を打った。
ただでさえ予定の半分も進んでいないというのに、どうして余計な仕事を増やすのだろうか。なぜ普通に入って来ることができないのだろうか。だいたいとっつぁんは、とそこまで考えたところで、土方ははたと唇を引き結んだ。
思考を停止させるべく頭を軽く振り、遅れて湧き上がってきた怒りを鎮めるように静かに息を吐き出した。机に手を置き力を入れる。座布団から浮きかけた尻はしかし、すぐに元の位置に落ち着いた。血管の浮いた、厚く四角張った手が土方の視界を遮ったのだ。
「勘違いしてるみたいだから言っておくが、行くのはてめーだよ、土方」
灰皿に吸殻を押し付けながら、松平が言った。
じりりと灰が崩れ、白い煙が細くたなびき消えていく。ねっとりとした重音を呑み込むように目を瞬かせていた土方は、おもむろにポケットから煙草を取り出すと、ライターに指を引っかけた。
「悪い。あいにく予定が入っててな」
「断れ」
「は? いや、明日は一人で」
「てめーの予定なんざ聞いちゃいねーんだよ。三秒やる。よく考えて、はいかうんで答えろ」
言うが早いか、松平は銃を取り出し引き金を引いた。数えてもいないじゃねーか。そう動かそうとした口を噤み、文句のひとつも言わないまま後退ったのは、硝煙が消えるよりも前に、二発目が発砲されたからだ。
土方は唾を呑み込むと、畳にめりこんだ鉛玉と床に散らばったままの書類とを見比べた。二週間ほど前から立てていた計画が頭の中を走馬灯のように駆け廻る。
「早くしろ。おじさん、マジで今日は忙しいんだよ」
再び向けられた銃身が、西日を受けて鈍く光っている。
土方は両手を上げ、叫ぶように言葉を叩きつけた。
「行けばいいんだろ、行けば! ……ったく、なんで俺なんだよ」
いや、まったく、本当に。そよ姫が土方を護衛として指名した。部屋を出ていく寸前に松平が付け足していった情報をふと思い出し、土方は眉間の皺を深くした。
もちろん、土方とて護衛という任務の重要性が分からぬほど馬鹿という訳ではない。ましてや相手は将軍様の妹君である。慎重に慎重を重ねても足りないことくらい重々承知している。
にも関わらず――自分である意味がどこにあるというのだろうか、休みを返上してまでこんな山に来る必要がどこにあったというのだろうか。はなはだ疑問である――そんなことを延々考えてしまうのは、この場所に流れている空気があまりにも平穏で、正直に言ってしまえば退屈だからだ。
上空でトンビが旋回している。澄んだ空気の中に混じっている甘い匂いが鬱陶しい。
土方は手で口元を覆いなおすと、わずかに開いた指の隙間から静かに息を吐き出した。頭の中で紫煙をくゆらせてみる。当然のように味はしない。想像するだけでうんざりしてくるが、屯所に帰るころには頭の先から爪の先まで、全身、甘ったるい匂いが染みついていることだろう。
せめて煙草があれば多少は救われるのだが、いかんせん、姫様の体に悪影響だからというもっともらしい理由で取り上げられてしまっている。あの時、手から煙草を取り上げられた時、なぜもっとうまく立ち回ることができなかったのだろうか。ああ、ニコチンが恋しい。煙草が吸いたい。
そんな土方の思考を遮るように、視界の隅っこで青緑色が翻った。なんだ? 疑問符を浮かべながら、思考の海に沈みかけていた頭をあげる。自分を覗き込んでいるモノの正体に気付いた瞬間、土方は、あ、と短い声をあげた。そよ姫だ。
「大丈夫ですか? 具合が悪いのでしたら誰か呼んできますけど」
ちょうどラジオのチューニングが合った時のように、そよ姫の甘く軽やかな声が、耳に脳にするすると入り込んでくる。土方は首を横に振り、手のひらをそよ姫に向けた。
「いえ、結構です。少し考え事をしていただけですから」
「良かった。全然反応がないから、立ったまま死んでいるのかと思いました」
死。虫すら殺したことのないような顔で、ずいぶんと物騒なものいいをするものだ。
心の中で関心にも似た声を洩らしながら、曖昧な笑みを浮かべてみせる。鼻から息を抜き、姿勢を正した。それは、仕事に集中しますという意思表示だったのだが、どうやらお姫様には通じなかったようだ。
「ところで、土方さんは花の指輪を作ることはできますか」
期待のこもった熱心な眼差しで差し出された質問に、土方は二度三度と目を瞬かせた。
「はな……」
「花の指輪です。できますか?」
「まあ、でき、ますけど」
答えてから、しまった、と思ったがもう遅い。そよ姫はパッと表情を輝かせたかと思えば、良かった!と手を合わせ、くるりと背後を振り返った。
「じいやー! 土方さんができるってー」
手を振り叫ぶそよ姫に、爺やこと六転舞蔵が「はしたないですぞ」と叱責を飛ばすが、当の本人は意に介していない様子で、鈴の音のような笑い声を転がしている。
不意に服の裾を引っ張られ、土方はつんのめりそうになった。
「もしよければ、教えてもらえませんか」
なにを、と聞き返すまでもない。この様子では先ほどの発言は流れでそう答えてしまっただけで、ちゃんと作れるわけではない、という言い訳を話す隙も与えてくれないだろう。土方は取られた腕を失礼のないようそっと振りほどくと、面倒くさいと匙を投げたい気持ちを押し殺し、わかりましたと頷いた。
これも仕事のうちだと言い聞かせそよ姫についていく。ほうぼうから突き刺さってくる視線が痛い。
そよ姫は30メートルほど進んだところで立ち止まると、土方を促しつつ腰をおろした。六転の胡乱気な視線が気になるが、気にしてもいられなくなったのはそよ姫に声をかけられたからだ。
「これなんですけど、爺やたちに聞いても誰も答えてくれなくって」
そう言ってそよ姫が示した花は、外来種だろうか、柔らかそうな白い花弁の中央に薄くオレンジ色が滲んでおり、土方には縁遠い単語ではあるが、可憐と形容したくなる姿形をしている。少なくとも武州では見たことのない品種だ。
土方は近くに咲いていた花をふたつ摘むと、ひとつそよ姫に渡した。
「説明するほどのものでもないのですが」
昔、武州にた頃、器用に花の冠を編んでいるミツバの横で暇つぶしがてら作った、ミツバの指には大きすぎた指輪のことをなんとはなしに頭の隅に思い浮かべながら、輪を作りあまった茎を巻きつけていく。手元を覗いてきたそよ姫の口から、感嘆のため息がこぼれた。
「思ってたより簡単なんですね。これなら私にもできそうです」
「そうですか」
「えっと、まず輪っかを作って、あまった茎を巻きつけて」
ひとつひとつ確認するように、手順を反芻しながら動いていたそよ姫の手が、不意に止まった。
サイズを見誤ったとか、花がうまいこと真ん中に来ないとか、そういう、指輪に関する疑問か問題が生じたのだろう。ほとんど完成している指輪を前に、じっと押し黙っている。
ゆるやかな風が頬を撫でた。土方は声をかけようと口を開きかけ、すぐに閉じた。念のために言っておくが、けして億劫になったわけではない。土方が声をかけるよりも、いや、息を吸うよりも早く、そよ姫がぺこりと頭を下げてきたのだ。
「先日はご迷惑をおかけしました」
「いえ、仕事ですから」
なぜ今このタイミングで。完全に虚をつかれている土方の目の前で、そよ姫の艶やかな黒髪がさらりと揺れた。謝罪は次に繋げるためのジャブみたいなものだったのだろう。その証拠に、あげた顔には申し訳なさと気恥ずかしさが綯い交ぜになったような表情が浮かんでいる。
そよ姫は人差し指と親指で指輪をつまむと、小首を傾げつつ、顔のあたりで掲げてみせた。
「神楽ちゃんに渡してもらおうと思ってたんです」
神楽。少し考え、すぐにそれが万事屋のチャイナ娘の名前であることを思い出す。そよ姫がなぜ自分を護衛に指名したのかずっと疑問だったが、これでようやく合点がいった。要するに、そよ姫の知る人物の中で神楽を知っている、と確信できる相手が土方しかいなかったというだけの話である。
「でも、作ってみたらすごく楽しくて、それで、神楽ちゃんと」
「一緒に作りたくなった」
言葉を引き継げば、そよ姫は一瞬きょとんと目を丸くして、それから深々と頭を下げた。
「わがままばかりでごめんなさい」
これ以上余計な仕事がしたくないだけだ。そんな気持ちはおくびにも出さずに、土方は慣れてますので、と言いながら花をひとつむしった。屯所に帰ったら浴びるように煙草を吸おう。そんなことを考えながら。