勝手に救われる

 勝手に救われる


「やめろ。余計に暑くなる」
 すこぶる機嫌の悪い土方が、隊士たちに向けてのたまっていたのはつい昨日のことだ。
『暑いと口に出した者は切腹』
 なんて条文が近々局中法度に加えられるのではないか。そんな噂が隊士たちの間でまことしやかに囁かれているが、常日頃、さまざまな場面で顔を出す土方の横暴さを思えば、あり得なくもない話だと沖田は思う。同時に、連日続くこの暑さだ。暑いと口に出すなと言うのはどだい無理な話だ、とも。
 げんに今目の前を通り過ぎていった二人組の女も、
「暑いね~」
「ねー。私かき氷食べたーい」という会話を交わしている。
 この店の庇が長くて良かった。そう思っている沖田もまた、気象予報士が異常気象だと眉をひそめ、たびたびワイドショーで特集が組まれているほどのこの暑さに、うんざりしている人間の一人だ。
 九月も後半に差し掛かろうかというのに、街に降り注ぐ陽射しは容赦がなく、太陽に照らされた大通りはほのかに光ってさえ見える。 沖田は地面に目を落とすと、建物の影からそっと左足を差し出した。ちょうど温度を確認しなが足湯につかるみたいに、まずは爪先を光の中にさらし、次いで甲の半分ほどまで足を進めていく。じわり、と靴越しに太陽の熱が伝わってくるようで。沖田はなんとはなしに靴の中で足の指をキュッと丸めた。
「あのー、すみません。お隣いいですか?」
「え、ああ。どうぞ」
 ふいに頭上から降ってきた声に沖田が顔をあげたのと、声をかけてきた相手──志村妙が「あら」と目を丸くしたのとは、ほぼ同時だった。
 買い物の途中なのだろう。お妙はここから少し離れた場所にあるドラッグストアのロゴが書かれたビニール袋を手に提げたまま沖田の隣に並ぶと、ふう、と小さく息を吐き出した。
「毎日暑くて、嫌になっちゃいますね」
「はあ」
「沖田さんはお仕事ですか? あ、こういうのって聞かない方がいいのかしら」
 いや、と否定しようとして、けれども怪しい人物の懐に入り込もうとしているという今の状況を説明するのはどうにも億劫で、曖昧に頷くにとどめる。すると何やら勝手に解釈してくれたらしい。お妙は「そうですよね」と小さくつぶやくと、手に持っているビニール袋の持ち手を握り直した。
「それ」沖田はお妙の手元に向けて顎をしゃくった。
「はい」
「重くねぇんですかィ」
 買い物の中身を詮索する趣味はないし、そもそも興味もないが、傍目にもお妙が手に提げているビニール袋はずいぶんと重たそうに見える。沖田の視線の意図を察したのだろう。お妙は手元に視線を落とすと、沖田の顔をもう一度見て、それから、ビニール袋をそっと地面におろした。
「弟に頼めばよかったのに」
「新ちゃん、今日はお仕事みたいで。朝から出かけてるんですよ」
 ぽつりと呟いた沖田の言葉は届いていたらしい。お妙は気恥ずかしそうに微苦笑を浮かべると、
「本当は洗剤だけ買うつもりだったんですけど、つい目移りしてしまって」そう言って首をすくめてみせた。
 ああ、なるほど。それならば沖田にも覚えがある。姉のミツバも、ちょっとした買い物だと言いながら、ついでの名目で予定よりも多くの荷物を抱えて帰って来ることがままあった。「言ってくれれば僕が荷物を持ったのに」と頬を膨らませる沖田の頭を、「次はお願いね」と撫でてくれた手のあたたかさが懐かしい。かつての姉上の指先も、赤くなっていたのだろうか。今のお妙のように。
 お妙の手がつと動いて、額に垂れた前髪をはらった。白い首筋にじんわりと玉の汗が滲んでいる。
「……茶でも飲んでいきますかィ」
「お茶、ですか?」
 怪訝な目で聞き返され、そりゃそうだと沖田は心の中で納得した。
 沖田とお妙は赤の他人というわけではない。だからと言って親しい間柄というわけでもない。沖田がお妙について知っていることのほとんど全ては、近藤から一方的に聞かされてきたものばかりだ。推測するに、それはお妙の方も似たようなもので。沖田とお妙、二人の関係性を端的に表すならば、知り合いの一言に尽きるだろう。
 ただの知り合いでしかない男に突然お茶に誘われ、お妙は驚いているのかもしれないが、不意に口から出てきた思いもよらぬ言葉に一番驚いているのは、沖田自身なのである。
「それで、どこに連れて行っていただけるんですか」
「え、あー」
 催促するような口振りで問われた沖田がしばしの思案の後にあげたのは、
「いらっしゃいませ。空いている席へどうぞ」
 誰もが知っているような、江戸のそこここにあるファミリーレストランの名前だった。
「こちらお冷です。ご注文が決まりましたらそちらのボタンでお呼びください」
「何か頼みますかィ」
 店員が去るのをなんとはなしに待ってから、沖田は横のメニュースタンドに刺さっているメニューブックを引き抜き、適当に開いてお妙に差し出す。テーブルのどこぞに注がれていたお妙の視線がそろりと動いて、沖田を、次いでメニューブックを見た。
「あの」
「決まりましたかィ」
「いえ。その、申し訳ないんですけど、あまり持ち合わせがなくて」
 申し訳なさと恥の滲んだ声音に、正直に言って沖田は意外な印象を受けた。お妙の職業柄、そして沖田の知り得る彼女の性格上、てっきり奢られることには慣れているものと思ったからだ。
 それともこれもまた二人の関係性に付随する距離感によるものなのだろうか。例えばこれが万事屋の旦那だったら、あるいは同じ真選組の中でも近藤さんだったら、彼女の反応もまた違ったものになっていたのだろうか。
 考えても詮ないことだ。沖田はふむ、と鼻から短く息を吐き出すと、「ここは俺が持ちやすぜ」開かれたままのメニューブックに軽く指で触れた。
「そんな。悪いですよ」
「安心してくだせェ。経費で落とすんで」
 なおも遠慮しているお妙に向かってやや前のめりの姿勢で口角を上げてみせれば、お妙の目が丸まって、その口から、あら、と柔らかな声がこぼれた。
「それに人の厚意は素直に受けとるもんですぜ。つーわけで俺ァ、クリームソーダを頼みますが、姐御はどうします?」
「そう、ですね。確かに沖田さんの言うとおりかもしれません。それじゃあ、えっと」
 小さく首を縦に振ったお妙の視線が、紙面の上を滑っていく。やがてメニューブックのページをあちこち行き来していた指が止まり、
「クリームあんみつでお願いします」
とお妙は言った。
「ごめんなさい。時間がかかってしまって」
「いや」
 沖田は短く返事をすると、コップを手に取り湿らせる程度に水で喉を潤した。さもありなんという話だが、呼び出しボタンを押して店員が来るのを待っている間も、注文はお揃いですかと確認した店員が伝票を置いて去って行ったあとも、二人の間には会話らしい会話がなかった。
「お先にどうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
 せいぜいこれくらいだ。
 水の中にいるみたいだ。鮮やかな青色をした炭酸をストローから飲みながら、そんなことをふと思う。昼時はとうに過ぎていたが、沖田たちと同じように涼を求めて入店してくる客が多いのだろう。店内は存外混んでおり、食器同士がぶつかる音や人々の話し声があちらこちらで響いていた。
 ぷつぷつと泡のようにわいては消えていく喧騒の渦の中で、沖田とお妙を囲む空間だけが深い深い水底に静かに沈んでいる。
 では。沖田は頬杖をつき、窓の方に顔を向けた。外と中を隔てているこの広い窓は、さながら水槽のガラス板と言ったところだろうか。どこかで蝉が鳴いている。人々の行き交う通りは太陽の光によって濃く彩られ、相も変わらず暑そうだ。
 沖田は先ほどからこちらじっと見つめている幼子に一瞥をくれると、クリームソーダの上に乗ったアイスクリームをスプーンですくい取り、これみよがしに口に運んでみせた。
「もう、意地が悪いですよ」
 ぴゃっ、と跳び跳ねて駆けて行った幼子の背中に向かって手を振りながら、お妙が言った。
 咎めるというよりもたしなめるような、少し眉の下がった声。沖田はちらりとお妙を見やると、立て続けに数口アイスクリームを口に運び、それから、尻を軽く浮かせ居住まいを正した。
「……ひとつ訊いてもいいですかィ」
「ええ。いい、ですけど。私に答えられるかしら」
「大丈夫でさァ。いや、まあ、たいしたことじゃねーんですがね」
 そこで一旦言葉を区切り、甘い炭酸を口に含んで小さく嚥下する。
「大変じゃねぇですかィ。弟と二人で」
 ぱちり、とお妙の瞳が瞬いて、沈黙が降りた。周囲の喧騒が、見えない膜を破って突き刺さってくる。沖田はくり返しストローに口をつけた。心臓が妙にざわついている。たいしたことじゃないと言いながら、柄にもなく緊張しているのだろうか。だとしたら笑える。
「そうですね……」
 投げかけられた質問を咀嚼するような、思考を整理するような声に、知らず知らずのうちに下がっていた視線を顔ごと上げる。目が合った。目が合って、沖田に向けてふわりと微笑んで、
「確かに、人並み以上の苦労はしてきたと思います。でも、だからこそ新ちゃんがいて良かったと思う瞬間が数え切れないくらいあるんです。昔も、今も」
 白玉とあんこをスプーンでまとめてすくいながら、お妙が言った。凜とした穏やかな声だった。
「でも、どうして・・・・・・あ! その手には乗りませんからね」
「なんのことですかィ」
 “その手”の意味がわからず首を傾げれば、
「あら。てっきり二人で大変なら、と近藤さんを紹介される流れかと思ったんですけど、違うんですか?」  口元についたあんこを指でそっと拭いながら、今度はお妙が首を傾げてみせた。
「まさか。これはただのエゴでさァ」
 目を伏せ、ミツバに自慢の弟だと言われたことを思い返す。お妙の答えはお妙の答えでしかないが、ミツバも総ちゃんがいてくれて良かったと思っていただろうか。思ってくれていたら、嬉しい。
 ああ、やっぱりエゴだな。沖田は一瞬窓の方を見やってから、テーブルの上のクリームソーダに手を伸ばした。溶けかけた氷がグラスの中で、からん、と音をたてた。
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