世界のある所

 世界のある所


「沖田さん! こんな所にいたんですか」
 背後からの呼び掛けに立ち止まり振り返ると、山崎が探しましたよーと言わんばかりの顔をして近付いて来るところだった。
 抱えていた袋から煎餅を一つ取り出し、齧る。醤油の香ばしい香りを飲みこんでから、「ザキも食べるか」と袋を差し出せば、山崎は目を瞬かせ、え、と素っ頓狂な声をあげた。
「いや、俺は別に」
「まあまあ。結構いけるぜ、これ」
 そう言って手に持っていた煎餅の残りを山崎の口に突っ込めば、かすが気管に入ったのだろう。ものの見事にむせ返っている。その姿がおかしくて指をさして笑っていると、なんとか生き返ったらしい山崎に、「こんなことしてる場合じゃないですよ」と軽く怒られた。
「じゃあ、どんなことをしてる場合なんでィ」
「お客さんです」
「客? 誰が、誰に?」
「万事屋の旦那が、沖田さんに」
「旦那が? なんでまた」
 珍しい事もあるものだ。今まで何度か旦那が真選組に来た事はあったが、大抵は仕事絡みだったり不可抗力だったりで、こうして個人を名指しで訪ねてくるのは初めてではないだろうか。確認のために一人かどうかを聞くと、あっさり肯定された。やっぱり珍しい。
「正門で待ってますから」
 最後にそれだけ告げると、何を急いでいるのか山崎は足早に来た道を戻って行った。
 どうせなら中で待ってもらえばいいのに。普段なら想像もしないような考えが一瞬頭をかすめたが、旦那と近藤さんが茶でも啜りながら清談を繰り広げてる図というのはどうしてなかなか浮かんでこない。マヨ野郎となら尚更だ。障子を開けたら和気藹々と雑談に耽っている二人がいる。想像するだけで可笑しくて笑えてくる。というか、想像する以前の問題だ。
 そんな事を考えながら正門までゆっくり歩いて行くと、はたして、旦那が門番の男に突っかかっているところだった。俺の姿を認めた門番が助けを呼ぶように手招きすると、釣られたように旦那が振り返る。目が合った。
「なんの用ですかィ」
「うん。海に行こうと思って」そう言って旦那は愛車のハンドルを優しく撫でた。
「うみ」
「そう、海」
「わざわざ訪ね来るから何事かと思ったら、海」
 今の時期に海に行って、何ができるというのだろう。泳げやしないし、砂浜で遊ぶにもまだ寒そうだ。サーフィンならいけるかもしれないが、俺にはそんな趣味はない。多分だけど旦那もだ。仮に見に行くだけだとして、海を見て何が楽しいのだろうか。どんな意味があるのだろうか。
 そこまで考えたところで、ふと、以前にも誘われた事があったなと思った。
 確かあれは秋の夕暮れ。電車の中で旦那がこのまま海を見に行こうと言って、右足にギプスを嵌めたままの俺は嫌だと断った。それで、それきり話は無くなったと思っていたし、そもそもその場限りの話だと思っていた。今更持ちかけてくるなんて、どういう風の吹く回しだろうか。
「海なんか行ってどうするんですかィ」
「別に何も」
「なんもねーなら行かなくたっていいじゃねーですか。じゃ、俺はこれで」
 踵を返そうとした俺の腕を旦那が掴んだ。握る強さの煩わしさに眉をしかめる。たっぷり三つ数えてからゆっくり振り返ると、旦那はほんの少しだけ力を緩めてくれた。それから、いかにも今思いつきましたと言わんばかりの台詞を吐きだした。
「バレンタインのお返し」
 バレンタインのお返しと言うのはホワイトデーに寄こすものじゃないのか。もう五月も上旬だ。ホワイトデーなどとっくに過ぎている。
「どうせなら、物が良かったんですけどねェ。しょうがない行ってやりますよ」
 肩を竦め、ため息混じりに返せば、旦那の顔が見る見る明るくなっていく、ように思えた。思えたと言うのは実際にはあまり変化していないからだ。
 じゃあこれ。と渡されたのはヘルメットで、俺が前と後ろを確認している間に旦那はさっさとスクーターに跨ってしまった。ほら、と差し伸べられた手に頼る事なく後ろに乗る。
「それじゃあ沖田君借りてくから」
 門番に向けられた言葉を掻き消すようなエンジンの音が、春の空にこだまする。一際大きな風が吹いて、木々を、俺たちを揺らした。反射的に腰に回した腕に旦那の手がそっと触れた。どきり。胸が鳴る。
 エンジンの音と風の音、それから自分の鼓動の音。三つが耳の奥で渦巻いて、俺は小さく唇を噛んだ。旦那の腰に回した腕の、触れられた箇所だけがやけに熱い。この熱が布越しにでも伝わればいいと思うし、伝わったら困るなとも思う。
「これはデートなんですかねィ」
「なに」
「これは、デート、なんですかね!」
 信号を待ちながら訊ねれば、旦那はこちらに向けていた顔を前に戻しながら、違うの、と疑問系で返してきた。やっぱりデートなのか。そんなことを考えながら、再び動き出したスクーターの上で、先ほどよりもきつく旦那の腰にしがみつく。口元が僅かに緩んだ。
 旦那は、バレンタインのお返しに海を見に行こうと言っていた。そしてこれはデートなのだとも。それはつまり、そういう、事、なのだろうか。一月以上前に重ねた唇の、熱い感触を生々と思い出す。
 ふと気付くと、右手に青が広がっていた。海だ。
 高台になっている駐車場にスクーターを停め、階段を降りて行く旦那の後に続く。十二段の階段の先に広がっている砂浜は想像よりもずっと綺麗で、柔らかく靴底に絡みつく。試しに手で掬ってみると、砂は呆気なく零れ落ちた。俺は手で日差しを作った。波打ち際に佇んでいる旦那が逆光でよく見えないからだ。
 覚束ない足取りで近付いて行くと、こちらに目を向けることなく、「俺たち以外誰もいねーな」と旦那が言った。
「……煙草なんて吸いましたっけ」
「いや。この前長谷川さんと呑んだ時に忘れてったから」
 そう言って、旦那は長く長く煙を吐いた。ゆったりと春の空に消えて行く煙を目で追いながら、この煙が入道雲になればいいのに、と自分でもよく分からない事を考える。旦那の横顔を盗み見ても、目を伏せたその表情から感情は読み取れない。
 読み取れない、が、俺には確信があった。旦那はきっと俺と同じ気持ちを胸に秘めている。例えば俺がここで旦那にキスをしたとして、きっと旦那は受け入れてくれる。
 バレンタインの時見たいな一方的じゃない、キスが出来る。
 目を瞑り、俺も細く息を吐き出した。拳を強く握る。波の音は穏やかだ。
「そういえばさ」
 旦那の声と砂を擦るような音に顔を上げた。
「昔、海を作ろうとした男がいたんだって」
「海を?」
「俺もよく知らないんだけど、小さな箱の中に水も砂浜も生き物も、全てが揃った完璧な海を作ろうとしたんだと」
「んな事してどーするんですかィ。海ならここにあるってのに」
「まあ、そうなんだけどね。多分さ、自分で世界作りたかったんじゃないかな、その男は。自分の存在を確認したかった。と言うか」
 途切れ途切れに紡がれていく話を聞きながら、俺は旦那の指に自分の指を絡ませた。旦那が息を呑む。その横で俺は息にも似た笑いを漏らした。
 だってこんなの滑稽だ。俺たちはこんなんじゃない。こんな、手が触れただけで戸惑ってしまうような、清い間柄じゃない。もっとあからさまに卑しくて、出鱈目で、曖昧な関係だ。俺がキスしてと言ったらキスをして、旦那がセックスをしたいと言ったらセックスをする。そういう関係になるべきだ。
「俺、旦那が好きでさァ」
 声には出さずに、心の中で言ってみる。思っていた以上に嘘っぽい響きだ。旦那の方を見ると、目が合った。絡みあったままの指は互いに熱を帯びている。
「旦那、キスしてくだせェ」
 俺の言葉に旦那は大げさに髪を掻き、大きく息を吐いた。
「沖田君さァ、他の人にはこういう事しちゃ駄目だよ」
 驚くほど優しい声の後で、驚くほど優しい口づけが降って来た。
 季節はまだ春だ。
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