足跡

 足跡


 視界の片隅で蛍光灯が明滅をくり返している。
 どうせそう遠くない未来、俺が交換することになるんだ。もうひとつくらい貰っても罰は当たらないだろう。
 心の中でひとりごち、カウンターの上の箱に手を伸ばす。途端、ぺしりと手をはたかれ、箱はカウンターを離れていった。
「ふたつまでって言っただろ」
「前借りだよ、まえがり」
「なんのだい」
 そう言ってお登勢は訝しそうに眉をよせ、それから、暴風に曝され忙しなく音を立てている硝子戸に顔を向けた。
「この天気じゃ、客足はあまり期待できそうにないね」
「そもそも客なんて来ないだろ。つーか、店開ける気かよ」
「当たり前だろ。今日は営業日だよ」
「……テレビ見てねえの」
「見たさ。云十年ぶりだかの大寒波だって言うんだろ」
 およそ十三年ぶりの大寒波だと、江戸でも積雪に気を付けてくださいと、アナウンサーが真面目くさった顔で言っていたのは昨日の夕方のことだ。その言葉どおりとでも言うべきか、未明から降り振る続いた雪は、一晩ですっかり街の姿を変えてしまった。
 いつもならばたくさんの人で賑わっている表の通りも、今日ばかりはもぬけの殻。閑散として色をなくし、どんよりとして覇気をなくしている。
 要するに、とてもじゃないが客が来るとは思えない有様なのである。
 だいたい、と銀時は頬杖をついてお登勢に人差し指を向けた。従業員であるキャサリンとたまを休みにしたのは、店自体を休業にするつもりだったからではないのか。
 そう指摘すればお登勢はきゅうりを刻む手を止め、「こんな日に出勤させるのはかわいそうだろ」いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのけた。
「俺はいいのかよ」
「あんたの家はすぐ上じゃないか」
「いやいや、階段を下りてくるの大変だったからね?あと少しで足を滑らせるところだったからね?」
「ケツの穴の小さい男だね。高級チョコふたつ、これで手は打ったはずだよ」
 チョコの前に付属している高級の部分を、噛んで含めるように、ことさら強調するかのように言ったのは気のせいではないだろう。
 その上、ふたつと言いながら立てられた指が三本であることを、数も数えられなくなったのかと揶揄すれば、これは滞納している家賃の分だよと鼻を鳴らしてみせるのだから腹が立つ。
 銀時は小鉢に盛られたきゅうりを摘みあげると、ひょいと口の中に放り込んだ。
「それにしてもやまないねぇ」
 手が空いたのだろう。それともニコチンが足りなくなったか。細く吐き出される煙の隙間で、お登勢は銀時の背後に視線を送った。どさり。屋根で雪崩が起こったらしい。重く湿った音がして、室内の空気が震えた。
「これじゃあまた雪かきをするようかね」
「やっぱり今日は開けない方がいいんじゃねーの」
「なんだいあんた、さっきから文句ばっかり言って。少しは江戸っ子の気概を見せたらどうなんだい。それに」
 お登勢の声音が一段柔らかくなった。
「こういう日だからこそ、開けておくのさ」
 銀時は、ほとんど残っていない酒をあおるようにして飲み干した。
 耳の中で渦巻いている地吹雪はいつのものか。
 前後左右も、自分の吐く息の白ささえ不確かな戦場で、肩を掴まれ振り返った視線の先、「見失ったかと思ったぞ」そう言って眉をひそめた男は、怒っているような今にも泣き出しそうな、不思議な顔をしていた。ゆるく束ねられた黒髪が、ほつれて頬にはりついている。
「高杉たちも戻っているはずだ。俺たちも行くぞ」
 銀時は言われるままに踵を返そうとして、そういえばまだ何にもありついていなかったと伸ばしかけた手はしかし、すんでのところで掴まれ止められてしまった。
「やめなさい、銀時」存外強い力に仰ぎ見れば、その強さとは裏腹の、ひどく優しい瞳と目が合った。
「人から物を奪ってはいけませんよ」
「……死んでてもかよ」
「死んでてもです」
 そういうものなのか。銀時は小さく唇を噛み、咀嚼するように首を縦に振ってみせた。松陽の目がますます細まった。
 不思議だと思った。これまで、他者から奪うことによって生き延びてきた銀時にとって、奪ってはいけないと言われることは、とても不思議なことのように思えた。
 隣にならって手を合わせながら、こっそり足下の雪を擦りあげてみる。少し抉れて湿った土が顔を覗かせた。
 いつか、と思う。いつか、雪を肯定的な目で見ることができるようになるのだろうか。凍えるような寒さも、飢えの苦しさも思い出さずに、ただ純粋に、冬を楽しめる時が、いつの日か来るのだろうか。
 促されるままに手を取られ、みんなの輪に入っていく。引き摺られるようにしながら振り返った視線の向こうで、松陽がどんな顔をしていたのか、もう思い出すことができない。
 まあ、今でも別に雪は好きじゃねーけど。
 銀時はカウンターに頬杖をつき、湯呑につがれた緑茶をすすった。適度な苦味が確かな熱をもって喉を滑り落ちていく。包丁が小気味よくまな板を叩く音が妙に心地良い。
 暖房がきいてきたからだろうか。それとも夢想に取りつかれてしまったか。お登勢が揺さぶるように銀時の名前を呼んだのは、赴くままに重たくなってきた目蓋を閉じかけたその時だった。
「……ンだよ」
「寝るなら帰ってからにしておくれ」
「いいのかよ」
「もちろん、やることやってからに決まってるだろう」
 そんなことだろうと思った。銀時は緩慢な動作で丸椅子から立ち上がると、隣の席に置いておいたスカジャンに腕を通した。軽く肩を回し、硝子戸越しに外を見る。風はだいぶ弱まってきたようだ。
 雪は今でも好きじゃない。寒いのも苦手だ。だからこそ、あの日のことを思い出すとなんとも言えないこそばゆい気持ちになるのかもしれない。
 銀時は硝子戸を引き、一歩踏み出した。真っ白な世界に、足跡がひとつ刻まれた。

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