晩夏に影を踏む

 晩夏に影を踏む


 ゆるやかに続く勾配を進みながら、新八は何度目になるかわからない溜息を吐いた。地元の駅員の話によると十五分も歩けば着くとの話だったが、江戸とここでは時間の感覚が違うのだろうか。もう優に三十分は歩いている気がする。
「は~俺もう帰ろうかな。一生着く気がしねーよ」
「今更なに言ってんですか。それに、もう報酬貰っちゃってるんですよ」
 しかも大金だ。当初、手紙を届けて欲しいという依頼に乗り気でなかった銀時だって、差し出された封筒の中身を確認した瞬間背筋を伸ばし、余所行きの顔でおまかせくださいと胸を張っていたではないか。
 そう指摘すれば銀時はついと顔をそらし、「あそこに投函しようぜ」使われているのかも怪しい古びた郵便ポストを指差した。
「まあ確かに、思いのほか遠くて驚きはしましたけど」
「アレ、無視?」
 電車に揺られることおよそ三時間。依頼主の老人が告げた聴き慣れない地名に、揃って首を傾げたのがもはや懐かしい。もっとも、この三時間の中には乗り換えの駅で待たされた四十分も含まれているのだが。
「ちょっと休憩しましょうか。大丈夫、神楽」ちゃんと話しかけようとして、新八は目を見開いた。
「ぎ、銀さん! 神楽ちゃんがいませんッ」
「あ? 道草でも食ってんだろ」
 言いながら銀時はさっさと先に進んで行ってしまう。
「でも」
「そのうち追いついて来るって」
「僕、ちょっと見てきます!」
 銀時の返事を待たず、新八は踵を返した。
 確かに銀時の言う事も一理ある。けれども神楽は夜兎なのだ。いくら頑丈な彼女と言えど、容赦なく照りつける太陽の下、しかも慣れない土地で、絶対に倒れていないなどと誰が断言できるだろうか。
「かぐらちゃーん」
 来た道を戻りながら右手を筒のようにして呼びかける。あついあついと唸る神楽に水分補給を促してから、まだ五分、十分も経っていないはずだ。そう離れてはいないだろうという予想が当たっていたこと以上に、神楽に変わった様子がないことに新八は胸を撫で下ろした。
 息を整えるように呼吸をくり返し、一歩踏み出した。刹那、温度が下がった。
 木陰に入ったからだろうか。手首のあたりをさすりながら、頭上を覆うように枝を伸ばしている木々を見渡す。湿った土と苔のにおいが鼻をついた。
「神楽ちゃんてば急にいなくなるんだもん。心配したよ」
 声をかけながら近づき、覗きこむように視線の先をたどる。
「お地蔵様がどうかしたの」
 新八は首を傾げた。神楽の視線の先、熱心に見つめているものの正体が、なんの変哲もない地蔵菩薩だったからだ。
 あえて特徴をあげるとすれば六地蔵であることくらいだろうか。けれども六地蔵などさして珍しいものではないし、神楽だって、例えば墓参りの代行で訪れた寺で、あるいは遊びに明け暮れた神社の境内で、目にしたことが幾度となくあるはずだ。
 それとも、この地蔵には他のものとは違う何かがあるのだろうか。質問を重ねようとした新八の目の前で、体の横に垂れ下がっていた神楽の腕がのそりと持ち上がった。
「なんで六体あるアルか」
 細く白い指を矢印にして神楽は言った。いつもより低い声だ。
 なんで。投げられた疑問を吟味するように、口の中で言葉を転がす。なんで。なんで、なんて考えたこともなかった。
「ええと、六地蔵って言ってね」
 六地蔵は六道輪廻に関係しているのだと、以前どこかで耳にした覚えがある。
 輪廻は転生、六道は六つの世界。地蔵は釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの間衆生を救う存在――これは後々得る知識だ。
 とどのつまり今の新八は、六道の内訳も地蔵が果たす役割も、うまく説明できるだけの知識も語彙力も持ち合わせていないのである。
「六つ子アルか」
「いや、そういう訳じゃないんだけど」
 さて、どう言えばいいものか。頭をひねる新八の頭上にひときわ濃い影が差し、肩が重くなった。何事かと新八が振り返るのと、体重をかけてきた人物が口を開くのはほぼ同時で、
「地蔵は閻魔の化身だって話があるぜ」
 銀時は新八の肩に手を置いたまま、顎でしゃくるように地蔵を示した。
「そうなんですか?」
「ケシン、ってなにアルか」
「化身って言うのはね、もうひとつの姿とか仮の姿って感じかな」
「ふーん」
 地獄に堕ちる人間の、生前の善悪を判断するために閻魔は地蔵の姿を借りているのだと、そのようなことを銀時は言った。
「へえ。よく知ってますね」
「まあな」
 新八は、意表を突かれたような気持ちになった。
 まあな、と答えた銀時の声が、そっと伏せられたまつ毛が、愁いを帯びていたからだ。もう戻らない季節を懐かしんでいるようなそんな愁いを。
 その時、突風とでも呼ぶべき強い風が吹いた。頭上を覆う木々の葉が揺れ枝が揺れざわめいて。不意に背筋を走った悪寒に、新八はたまらず身震いをした。
「そろそろ行きませんか」
 ここにいてはいけない。頭の中で警鐘が鳴る。木々のざわめきに掻き消されぬようにと張り上げた声は、しかし、自らのあげた声によって霧散することとなった。
「神楽ちゃん? どこに行くの?」
 声をかけ引き止めれば、神楽は石段に足をかけたまま振り返り、上、を指差した。鳥居だ。釣られるように仰ぎ見た石段の上、ぽっかりと開いた空間に、石で造られた古びた鳥居があった。
「神社? でも、なんで」
 今日の仕事は手紙を届ける、それだけのはずだ。依頼主の老人だって、道を尋ねた駅員だって、一言も神社なんて単語は出していなかった。
 いや、そもそも。頭の中の警鐘が大きくなる。駅から目的地に向かって新八たちが歩いて来た道は一本だった。必然、新八が神楽を探して戻った道も一本ということになる。記憶違いでなければ六地蔵も神社もなかった。そしてこれは確信して言えることだが、こんな木々の多い、じめっとした薄暗い場所は通って来なかった。
 頭の中で鳴り続けている警鐘が、はっきりと輪郭をかたどっていくのがわかる。ここにいてはいけない。今すぐこの場所を離れなくてはいけない。
「ちょっと待って神楽ちゃんッ」
 腕を掴み引き止める。一瞬立ち止まり振り返ったものの、再び上に行こうとする神楽を強引に引っ張り、新八は石段を駆け下りた。
「銀さんも、行きますよ」
 返事を待たず銀時の腕も掴んだ。こういうのを火事場の馬鹿力というのだろうか。銀時と神楽、二人の腕を掴んだまま、前に進んでいく。泥の中を泳いでいるようだと思った。
 どこか遠くで石同士がぶつかり合うような甲高い音が響いて、永遠に続くかと思われた木陰は唐突に終わりを告げた。本当に唐突に。
「え、なんで新八に腕掴まれてんの」
「まあいいじゃないですか。それより早く手紙を届けましょう」
 夢現といった様相の二人に先行し更に更に歩みを進める。目的の家は、三十分以上歩いたことが馬鹿らしくなるくらい、拍子抜けするほどあっさり見つかった。
「わざわざ遠いところを、ありがとうございます」
 迎えてくれたのは、想像していたよりもずっと若い女性だった。年の頃は四十代半ばと言ったところだろうか。
「もっと婆さんかと思ったネ」
「神楽ちゃん!すみません、その、依頼してきたのがご老人だったので」
 依頼してきた老人は、長年の友人だと言っていた。そう言い添えれば女性は一瞬意外そうな顔をして、「そうですか、そんなことを」と呟いた。
「……もしかして、恋人とか?」
 銀時の不躾な質問はあっさり否定され、返ってきた答えは父ですの一言だった。
「お父さん、ですか」
「ええ。二十年前、国を護るんだって出て行って、それきり」
 でも、と女性は座卓に置いた手紙に愛しそうに指を這わせた。
「息災みたいで安心しました」
「パピーならパピーって言えばいいアル」
「母と私を置いて行った後ろめたさがあったのかもしれません。シャイな人でしたから。麦茶のおかわり持ってきますね」
「気にしないでください。そういえば、ここに来る途中にお地蔵様があったんですけど」
「そんなのあったっけ」
「皆さんは、電車で来られたんですよね」
「はい」
 女性は上げかけていた腰をおろし、考えこむように頬に手をあてている。訊かない方が良かったかもしれない。
「僕の勘違いだったかも」
「もしかして、影を踏みましたか」
 かぶせられた言葉に、息が詰まりそうになった。背筋を冷たいものが走った。銀時と新八はやはり覚えがないようで、なに言ってんだこいつらという顔をしている。新八は麦茶で喉を潤すと、小さく頷いた。
「そうですか」
 女性が小さく頷いて、それきりその話は終わりになった。帰宅の途に着く直前までは。思いがけず長居したことを詫びる新八に女性が手渡したのは、なんの変哲もない小さな石だった。
「これを握っていれば迷うことはありません。気を付けてお帰りください」
 江戸に向かう電車の中。静かになったボックス席の片隅で、新八は撫でるように自分の手のひらに触れた。
 小石は駅舎の前に捨ててきた。女性にそう助言されたからだ。女性の言いつけを守ったからかどうかは不明だが、帰り道は来た時に駅員が言っていた通り、十五分も歩けば駅についた。
 銀さんも神楽ちゃんもまぬけな顔をしてたな。口元がゆるむのを感じながら、新八は頭を垂れ、そうして静かに目を閉じた。
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