拝啓、カランコエ

 拝啓、カランコエ


 カランコエ、と男は言った。懐かしむような、愛おしむような声だった。
 視線に気付いたのだろう。男は赤らんだ目を細めると、
「カランコエ。その花の名前ですよ」と、銀時の手元を指差した。
 カランコエ。やはり聞き慣れぬ単語を口の中で転がしながら、小さな鉢に植えられた植物の、肉厚な葉に触れてみる。
「ほい、これサービス」
 そう言って店の主人がカウンター越しによこしてきたのは軟骨の唐揚げで。鉢を脇によけた銀時は、皿に伸ばしかけた箸の先で、男と植物を交互に指し示した。
「で。なんなの、これ」
「カランコエですよ。カランコエ」
 さっき教えたでしょう。とでも言いたげな様子で、疑問と少しの不満を隠そうともせずに、男は首を傾げてみせる。首を傾げて、ややしてから、
「ああ。銀さんに差し上げますよ。お礼です」
 合点したように左右の手のひらを打ち合わせた。
「お礼って、なんの」
「銀さんにはいろいろお世話になりましたから」
 いぶかしげに訊ねた銀時に、男は白い歯を見せて言った。相変わらず表情のくるくると変わる男だ。そんな感想を抱きつつ、軟骨の唐揚げを咀嚼する。
 半年ほど前だろうか。もう少し前だったかもしれない。パチンコからの帰り道、気晴らしに一杯引っかけようと立ち寄ったこの店のこのカウンターに、先客として座っていたのがこの男だった。
 第一印象は、強いだ。とにかく酒が強い。うわばみと言うのだったか。銀時が一杯目を飲み終わる頃には目の端で数え切れないほどの空のグラスが積み重なっているといった塩梅で、
「ああ悪い。今片付けるよ」
 店の主人が呆気にとられたのも無理からぬ話だと、内心舌を巻いたものだ。
「そんなに飲んで、怒鳴られるんじゃないかい」
「怒ってくれる人がいたら良かったんですけどね」
 主人の揶揄に応じた声があまりに穏やかで、銀時はこの時はじめてまともに男の顔を見た。人は良いが地味。男の印象を聞かれた人間は十中八九そう答えるだろう。好印象を与えるが、印象には残らない。例え明日道ですれ違っても気付かない自信があると断言してもいい。
「野暮なことを聞いちまったかな」
「ああ、すみません。勘違いをさせてしまったみたいで。単身赴任中なんですよ、僕」
「単身赴任! じゃあ江戸は初めてかい」
「昨日でちょうど一週間です」
「だったら」
 主人の声がでかく、明るくなった。
「何かあったら、この万事屋の旦那に頼むんだな」
「よろずや、ですか」
「なあ、銀さん」
 肩をたたくように名前を呼ばれ、銀時は落としかけていた顔をあげた。促されるままに懐を探り、名刺の代わりにグラスを軽く傾ける。
「部屋の掃除から浮気のもみ消しまで、なんでも承るぜ」
 それから、二度ほど男から依頼を受けた。
 一度目は引っ越しの片付けも兼ねた部屋の掃除。新八と神楽を連れてアパートを訪ねると、男は一瞬驚いた顔になり、けれどもすぐに人の良さそうな笑みを浮かべて丁寧に頭を下げた。どうぞこちらですと案内された居間には、宣言通りまだ段ボールが残っていて。
「つい後回しにしてしまうんですよね」
 と頭を掻いたその表情は、穏やかなものであったと記憶している。
 二度目は銀時が一人で行った。男が一人で事足りると言ったからだ。依頼は単純。指定された駅まで書類を届けるというもので、駅前の広場で鳩を眺めている横顔に声をかけると、男はパッと眼を輝かせた。
「もし良かったら、お昼でもご一緒しませんか。奢ります」
 報酬を受け取ろうと手を伸べた銀時に、男が言った。奢ると言われて断る理由がない。ついでに言えばこの後の予定もない。
「別にいいけど」
「すぐそこにナポリタンのおいしい喫茶店があるんです」
 ナポリタンがおいしいという喫茶店で、男はカレーライスを二つ注文した。
 お冷やとカトラリーセットを置いた店員がお辞儀を残して去って行く。男はおしぼりで手を拭いてから水に口をつけた。書類にちらりと目をやり、改まったように居住まいを正す。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「あんた今一人なんだろ。あんな所に合鍵なんて隠して、誰か入れてる人でもいんの」
 あんな所とは郵便受けのことである。アパートの部屋から書類を持って来て欲しいという依頼を受けた時、銀時がまず初めに確認したのは部屋への入り方だった。
 管理人を通すのだろうという概ねの予想はしかし外れ、代わりに示されたのが合鍵の在処だ。前回の依頼以降数週間ぶりに訪れた部屋は、家主がいないからだろうか、銀時の眼にはどこかうら寂しく映った。
「前にうっかり部屋の入れなくなったことがあって、念のために作ったんですよ、合鍵」
 銀時の下世話な表情に気付いていないのか、あえて触れずにいるのか、微苦笑に恥ずかしさをにじませながら、男は言った。
 スプーンが皿にあたって甲高い音をたてた。カレーを口に運ぶ隙間を縫って男が口を開く。喋る隙間を縫ってカレーを食べていると言っても過言ではないかもしれない。それほどまでに男は饒舌で、同時に男の話は退屈だった。
 明日道ですれ違ってもこの男だと気付かない自信があると思った時と同じように、今しているこの話も家に帰る頃には忘れているのだろうとぼんやり思う。
「銀さん」
 相づちを打つのも忘れかけた頃合いに名前を呼ばれ、銀時は喉も渇いていないのに水を飲んだ。テーブルの端に置かれた伝票を手に取りながら、男が言葉を重ねる。
「また、お会いしてもいいですか」
「依頼ならいつでも歓迎するぜ」
「ぜひ、お願いします」
 銀時の返答に、男は少し寂しそうに笑って、頭を下げた。
 もう仕事に戻る時間だと立ち上がった男と喫茶店の前で別れ、駅へと向かう道すがら、そういえば男に名前を呼ばれたのはさっきのが初めてだったなと、そんなことを考える。考えたような覚えがある。
 どうやら行きつけになったらしい。男とはその後も何度かこの居酒屋で行き会って、会話を交わすことも時には酒を交わすこともあって、けれどもあれ以降依頼を受けることはなかった。
「俺、植物を育てる趣味はないんだけど」
「大丈夫ですよ。カランコエはやさしいですから」
 どうせなら金品が良かった。暗に滲ませた欲望は、残念ながら届かなかったようだ。男は穏やかにそう言うと、酒で喉を潤した。
「薔薇にしようかとも思ったんですけど」
「なに?」
 本当は、と続けた声の小ささに聞き返したものの、くり返すつもりはないらしい。男はただ微笑むばかりで、それ以上言葉がつむがれることはなかった。
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