そしてソファで目を閉じる

 そしてソファで目を閉じる


 酒を飲んでいて少し気分が良かった。判断力が鈍っていたのもあるかもしれない。トイレを出たところ、というタイミングも少なからず関係しているだろう。
 どこぞの酔っ払いが間違えたのだろうと、いつもならば開けない玄関の戸を、この日、坂田は自らの手で開いた。
 二回鳴ったチャイムの音に耳を傾け、やや覚束ない足取りで三和土に降り、はいはいと鼻歌の交じったような機嫌の良さで戸に手をかけて、そして、後悔した。
「うちは新聞はとって」
「ずいぶんと機嫌が良いじゃねーですか」
 戸のふちを手で押さえながら、皮肉めいたの言葉にかぶせるように、揶揄するような口振りで目の前に現れた人物――沖田は言った。
「……なに? こんな時間に」
 深夜とまでは言わないが、人様の家を訪ねて来るにはいささか遅い時間だ。しかし、常識を問う方がおかしいとでも言うのか、とうの沖田は眉をひそめている坂田など意にも介さない様子で、家の中を覗きこんでいる。
「一人ですかィ」
「揃って新八ん家」
「へー」
 自分で訊いておきながら、興味があるのかないのか。沖田は適当な相槌をうつと、
「ちょうど良いや。泊めてくだせェ」
 言うが早いか坂田の横をするりと通り抜け、家の中に上がって行ってしまった。
「まだなんにも言ってないんだけど」
 坂田は、それはそれは大きなため息をついた。すっかり酔いの醒めた頭に手をあて首を振り、沖田の後に続いて居間の敷居をまたぐ。
「寝るところでしたかィ」
 暗がりの中、端正な横顔をテレビの明かりに照らされながら、沖田が言った。
「まさか」
 夕方からだらだらと過ごしていて、結果、電気をつけていないだけだ。
「じゃあ、お楽しみのところだったとか」
「ちげーよ。うちはそういうのは置かないようにしてんの」
「そいつァ、殊勝な心がけで」
 肩をすくめるように言って、沖田はソファに腰かけた。一瞬だけ躊躇して、坂田も沖田の隣に腰かける。沖田が訪ねて来る以前、トイレに立つまでの間、久方ぶりの一人を満喫していたのがこの席だったのだ。わざわざ移動してやる道理はないだろう。
 沖田はちらりと坂田の方を見て、すぐにテレビに視線を戻した。床に転がっていたリモコンを拾い上げ、家主である坂田になんの断りもなくチャンネルを回す。しばらくザッピングをしたのち、最初に流れていたバラエティに落ち着いて、そこで会話は途切れた。
 静かな夜だった。
 空は厚い雲におおわれ月も見えず、時折吹く風が木造建ての家屋を軋ませ揺らす。いつもならばどこからか流れてくる街の喧騒も、今日は膜を張ったかのように遠く、おぼろげだ。
 不意に大きな笑い声が上がった。ブラウン管の中の話だ。会話が途切れてそれきり、沖田はむつりと唇を引き結んだまま。喋るどころか笑う気配すらなく、つまらなそうにテレビを見つめている。
 坂田はソファの背もたれに身をあずけた。背面に片腕を回し、上体を反らしつつ天井を見やり、
「腹、減ったな」思い出したように呟いた。
「ラーメン作るけど、食べる?」
 姿勢を戻し隣を覗きこむように訊ねれば、少しだけ間があいて、沖田の髪がさらりと揺れた。
「味噌? 醤油?」
「醤油」
 沖田が頷いたのを確認して、坂田はソファから立ち上がった。台所に向かいがてら後ろからついてくる気配と交した短い会話はしかし、戸棚を開けた瞬間にふいになった。
「よし。塩にするか」
「選択肢にないやつじゃねーですか。まあいいですけど」
 沖田は愉快そうに肩を揺らして、それから、コンロの上に置かれていた片手鍋を指差した。
「旦那、これ使っていいですかィ?」
「んー」
 生返事をしつつ、坂田は冷蔵庫の中を探る。しばらく検分したのち野菜室からもやしと半分ほど残っていたキャベツを取り出すと、いったん冷蔵庫の扉を閉め、少し迷ったすえにもう一度開いた冷蔵庫の中から豚バラ肉を取り出した。
「よくやるんですかィ、こういうの」
 肉と野菜を炒めている坂田を横目に、湯が沸くのを待ちながら沖田が言った。
「こういうのって」
「遅い時間にラーメン食ったりとか」
 ああ。得心したように頷いて、いや、と坂田は否定する。
「よくはやらねーかな。神楽もいるし」
 フライパンの乗ったコンロの火を止めながらそう言った坂田は、はてなマークを投げかけている沖田の視線に気づき、「体に悪いだろ。あんま遅い時間に食うの」と付け加えた。いかんともしがたい気恥ずかしさをごまかすように。小声で、やや早口に。
「お。沸くな」
 気を取り直すようにわざとらしく声を張り上げ、坂田は沖田に袋麺を開けるように指示を出した。沸騰した湯に麺を入れ、待つこと三分。
「右の方が肉が多くねぇですかィ」
「一緒だよ一緒。そういや、そっちは夜食とか出んの」
「決まった出動があれば遅い飯もありやすけど、基本的にはそれぞれって感じですかねェ。あ、土方さんなんかは夜な夜なマヨすすってますぜ」
「なにそれ、こわ。妖怪じゃん」
 などと、やいのやいの言いながら完成させたラーメンを、各々で運び席につく。席について、なんとなくテレビをつけて、いただきますと箸を持って。互いに無言で麺をすすること幾ばくか。
 台ふきんの代わりにとティッシュに手を伸ばした坂田の耳に、沖田の声が届いたのはその時だった。
「人を殺して泣いたことはありやすか」
 ゴミ箱に向かって投げたティッシュが、床に落ちた。なんて、と渇きを覚え始めた喉で聞き返せば、沖田は坂田の目をじっと見つめたまま、
「旦那は、人を殺した時に泣いたことはありますか」
と、先ほどよりも少し丁寧で、けれども少しだけ淡々とした口調でくり返した。
「……食ってる時にする話じゃねーだろ」
「そうですかィ? 死の話ほど、食事に合うものはねーと思いやすけど」
 こてんと小首を傾げた沖田の口角がわずかに上がっている。自罰の笑みだと直感的に坂田は思った。他人につけられた傷を己で広げる。ズキズキと身を焦がすような痛みは、坂田にも覚えのある感覚だ。
「ホテルの件は知ってますかィ」
「あー新聞に載ってたやつだろ」
 攘夷浪士が企てていた爆破テロを、真選組が未然に防いだという事件だ。
 ジャンプ目当てに立ち寄ったコンビニで気まぐれに手に取った新聞には、皮肉と称賛の入り交じった文章が、死者の数とともに踊っていた。
「で、そん時に俺と行動してた隊士の一人がですね。ああ、食べながらでいいですぜ」
 完全に箸の止まっていた坂田をうながしつつ、沖田は話を先に進める。
 テロを未然に防いだ日から一週間ほど経った頃だっただろうか。たまには真面目にやるかと気まぐれに顔を出した稽古場で、誰でもいいから相手をしてやると居並ぶ隊士たちに向けて放った挑発に、いの一番に乗っかり手をあげたのは、これと言った特徴のない中肉中背の青年だった。
 道場の中央。平晴眼に木刀をかまえたところで、沖田はおや、と眉をひそめた。対峙した青年が一番隊の隊士だったからでは無論なく、つい先日、ともに死線をくぐり抜けた人物だと気づいたからでも当然ない。
 せっかくのチャンスだと言うのに、対峙した男からは死ぬ気で勝ってやろうという気概や闘志といったものが、いっこうに感じられなかったのである。
「死ぬ気ってマフィアじゃないんだから」
 いの一番に名乗り出た人間とは思えないほど、青年の目には覇気がなく、心なしか足元もおぼつかない。案の定沖田によってコテンパンに叩きのめされた青年は、道場の端っこに転がされたまま、「眠れないんですよ」と恨めしげにそうこぼした。
「言い訳か」
「違います」
 見下ろす沖田に一瞥をくれ、青年はゆるく首を振ってみせた。
「そんで、言われたんでさ。あなたには人の心がない。化け物だ。人間じゃないって」
 腕で覆われた青年の表情はうかがえず、“化け物”と吐き捨てた声は、聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。
 木刀がぶつかり合う音。床のこすれる音。気迫のこもった隊士たちのかけ声。それら道場に満ちている様々な音に掻き消されそうな声量で、青年は、覚悟はしていたんですと言った。真選組に入隊し一番隊に配属された時点で、死と隣り合わせになる覚悟はできていたんです、と。
 ホテルで沖田と行動をともにすることになった時、青年は少し期待したのだという。並みいる敵をものともせず勇猛果敢に刀を振るう自分を、あるいは沖田の窮地に颯爽とかけつけ華麗に敵を薙ぎ払う、そんな自分を想像して。
 ところが、ふたを開けてみたらどうだ。現実にいたのはどこまでも臆病で、なさけない男だった。
 沖田が、他の隊士たちが戦っている中、男はただ震え、立ち尽くしていたのである。
 誰のともつかない血飛沫があがった。誰かに邪魔だと突き飛ばされた。すべてが曖昧でおぼろげで、自分がどうやって屯所に戻ったのかもわからない。
 ろくに喉を通らない食事とすえた胃液の臭い。眠りを妨げるようにくり返し見る悪夢。布団の中で抑えきれぬ嗚咽。
「それだけが事実なんですよ」  青年は顔から腕をはずして、沖田を見た。
「隊長は、人を殺して泣いたことがありますか」
「さあな」
 ないでしょうと言外に含んだ青年が、否定と肯定、どちらの答えを望んでいるのかどうにも判然としなかった。最後にそう呟くと、この話はこれでおしまいとでも言うかのように、沖田はどんぶりの上に箸を置いた。スープに沈んだ麺や肉のかけらを拾いながら、青年にぶつけられた言葉も掬い上げているようだったなと、坂田はぼんやり思った。
「ごちそうさまでした。まあ、正直、気にも止めてなかったんですがね。なんか、今になってうまく眠れなくなっちまって」
 沖田は律儀に手を合わせ、それから、気恥ずかしそうにこめかみのあたりを爪で掻いた。 「それでなんでうちに」
「……歩いてたら、あったから?」
「いや、疑問形で来られても。こっちも困るんだけど」
「なんででしょうねェ」
 間延びした口調と共に、沖田はソファに沈んでいく。
「まあ、でも、眠れないなら眠れないでいいんじゃない」
 どんぶりを食卓の中央によせながら言った坂田の言葉に一瞬目を丸くした沖田は、ふっ、と唇を指の背にあてると、「そういうところでさァ」と含み笑いをもらした。もらして、天井の方に目をやって、坂田を見上げるように視線を動かして、
「ラーメン食った後って、アイス食いたくなりやせん? 」とねだった。
「あーわかる」
 冷凍庫の中身を思い出しながら、坂田はソファから腰をあげた。確か、この前買った箱アイスの中身がまだいくつか残っていたはずだ。神楽に食べられていなければの話だが。
「俺ァ、バニラにしてくだせェ」
 後ろから追いかけてきた沖田の声に、ひらひらと手を振り返す。たとえ冷凍庫にアイスがなかったとしても、夜はまだまだ長いのだ。近くのコンビニにでも買いに行けばいいだろう。そんな風に思考を巡らせつつ、居間から出るすんでのところで、坂田はふと足を止めた。
「あるよ。人を殺して泣いたこと。土埃がひどくてっさ、目にしみたんだ」
 振り返らなかったから、沖田がどんな顔をしていたのかはわからない。
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