夜にまたたく
硝子戸の閉まる音が路地裏にこだまする。火照った頬に夜風が心地良い。
先日、猫を探してくれたお礼にと教えてもらった居酒屋は、なるほど、穴場だと耳打ちされただけのことはある。狭いながらも手入れの行き届いた店内は居心地が良く、無口な親父の作る料理の味も申し分なく、何よりもなけなしの金でそれなりの量を飲めることが銀時の腹と心を満たした。
近いうちにまた来よう。そんなことを考えながら、大通りへと抜けるべく歩みを進める。自然と閉じた唇から音がこぼれ出した。最近よく流れているチョコレートのCMソング。密かに気に入っているその曲の、サビばかりを繰り返していた銀時は、視界の隅で捉えた動くモノの気配に思わず足を止めた。
猫だろうか。犬だろうか。ホームレスだろうか。もしや、おばけ、なんてことは。
「いやいやいやそれはねーよ」
わざと大きな声を出し、自分の考えを否定するように左右に二度三度と首を振ってみる。今日は控えめにしたつもりだったのだが、おばけなんて単語が出てくるあたり、だいぶ酔いが回っているらしい。さっさと家に帰って水でも飲んで布団に潜ろう。
そう思い、先へと進むための一歩を踏み出した銀時は、しかしすぐに踵を返した。なぜだかわからないが、どうにも先ほど感じた気配が気になって仕方ないだ。妙に胸がざわつくと言うか。
銀時は後ろの髪を掻き回すと、項垂れつつ息を吐いた。それからおもむろに背筋を伸ばし自然な態を装ってそっと暗がりを覗きこんだ。目をすがめること数秒。徐々に輪郭をあらわにした人物によく知った青年の面影を見た瞬間、銀時の口からその名前がこぼれ落ちた。
「沖田、君?」
呟いた途端、心臓が自己主張を始めた。足元で紙がこすれ合うような音がする。その音に引っ張られるように暗がりへと足を踏み入れた銀時は、道幅の狭さに辟易しながらも徐々に距離を縮めていった。
じりじりと進むこと数メートル。銀時は立ち止まると、沖田のつむじを見下ろしたまま、鼻から冷えた空気を吸い込んだ。
「こんなところで寝てると風邪ひくよ」
肩に手をかけ軽く揺すってみる。ピクリとも動かない。動く気配すらない。銀時は眉をひそめ、それから改めて周囲の様子を確認するようとぐるりと首を動かした。
誰が捨ておいたかも分からないゴミ袋やらダンボールの山。そしてその山に埋もれるようにして沖田が膝をかかえている。あいにく時計を持っていないので今が何時かわからないが、店を出た時間から考えても日付を跨いでいることは明白だろう。いくら沖田がエキセントックな行動の多い人間とは言え、そんな時間にこんな場所で一人蹲っているというのはなんとも不思議な話である。
銀時はひとつ息を吐き出すと、建物の隙間からわずかに覗く空を見やった。雲の流れが速い。風が少し強くなってきたようだ。
「そろそろ帰るか」
誰にいうでもなく呟き、姿勢を正す。正してギョッとして思わず息を呑んだ。先ほどまでなんの反応も示さなかった沖田が顔を上げ、静かにこちらを見つめているのだ。
「あ、起きてたんだ」
驚きに戸惑いが混じったせいか、妙に上擦った声が出た。返事はない。沖田は依然としてまっすぐ前を見据えたまま、固く唇を結んでいる。銀時は喉の渇きを覚えた。上顎が貼りつくような、引っ張られるような感覚に内心眉をしかめつつ、それでもなお言葉を紡ぐ。
「家出? 喧嘩でもした? どっちと喧嘩したか知らないけどさ、どうせ家出するならもっと遠くに行かないと。現に銀さんに見つかっちゃってる訳だし」
「喧嘩だったら良かったんですけどねィ」
不意に差し込まれた声に、銀時の心臓が小さく跳ねた。視線がかち合う。ほとんど灯りの届かない路地裏で鳶色の瞳が鈍く煌めいている。沖田の唇がへの字に歪み一瞬だけ崩れた。
「今のどういう」
「さあ、」
どういう意味でしょうね。目を伏せつつそう言ったかと思うと、沖田はおもむろに脚を崩し右手を地面についた。重心が傾く。余った左手が天に向かって伸ばされる。立ち上がるのかと差し出した銀時の善意はしかし、沖田が手の形を変えたことによって、生かされることなく放置されることとなってしまった。
「あそこにオリオン座が見えるでしょう」
「え、」
言われるがままに振り仰ぎ、「ああ、うん」頷く。確かに沖田の指が示すとおり、銀時のいる位置からやや右寄り、鉄紺の空の彼方に三つの星が並んでいるのが確認できた。できたのだが、それがどうしたというのだろう。疑問も露わに振り返った銀時の耳を、再び沖田の声が穿った。
「俺ァね、ガキん頃、オリオン座の真ん中になりたかったんでさァ」
「……は?」
突然なにを言い出すんだ。銀時はよろめきながら二歩三歩と下がり、沖田の隣に腰かけた。ちらりと覗き見た沖田から白く濁った二酸化炭素が吐き出される。すぐに闇に溶け込んだその跡をなんとはなしに眺めていると、すぐ横で人の動く気配がした。足元のダンボールから情けない音があがる。
沖田はもう一度、今度は噛み締めるような口振りで、オリオン座になりたかったと言った。
「あの星座の名前を姉上に教えてもらった時、俺たちみたいだと思いました。真ん中が俺で、左が姉上で、右が近藤さん。あの頃、俺にとっては二人が世界の全てで、二人さえいれば俺は無敵だった。だから、アイツが現れた時、今すぐオリオン座のあの三つの星になりたいと思いやした。三人でオリオン座になればそれで俺たちは幸せになれるって本気で信じてやした。……旦那。旦那は、人間は死んだら星になるって話信じますかィ」
「迷信だろ。人間なんて死んだら焼かれて骨になってそれで終わりだよ」
「それもそうでさァ」
そう言って、沖田は愉快そうに肩を揺らした。路地裏に踏み入れた時から感じていた違和感や緊張感がやわらいでいくのがわかる。銀時は心の中でひとつ息を吐き出し、組んでいた指をほどいた。
「そろそろ帰るか」
二度目になるセリフと共に沖田の方に顔を向ける。向けて、おや、と眉を顰めた。
ついさっきまで陽の空気を全身にまとっていたはずの沖田が、今は目を見開き口元を手で隠しているのだ。呆然としている銀時の目の前で、沖田の背中が徐々に丸まっていく。全身が小刻みに震えているのは、せり上がってくる何かをこらえているからだろうか。
(何かってなんだよ)
舌打ちをしたい衝動をこらえ、沖田の背中にそっと触れてみる。薄い。確かに沖田はがたいのいい方ではないが、しかしこんなに骨ばっていただろうか。銀時は奥歯を噛み締め、無言で背中をさすり始めた。
抵抗のつもりなのか沖田がゆるく首を振ってみせる。それでも構わずに擦り続けていると、指の隙間から漏れてる呼吸から余裕が無くなっていき、やがて観念したのだろう沖田は一瞬身を硬くすると崩れるように大きく体を震わせた。湿った咳の音が辺りに響き渡る。
数十秒は経っただろうか。ようやく落ち着きを見せ始めた沖田の呼吸が正常に戻ったのを確認した銀時は、その細い肩に軽く触れ、体を起こすのを手伝った。
「落ち着いた?」
「へえ。……すいやせん、お見苦しいところをお見せしちまって」
「いや、それは、別にいいけど」
地面に目を落とし、すぐに外す。銀時はそのまま一度立ち上がると、沖田に背中を差し出した。
「いつまでもここにいる訳にはいかねーだろ。送ってやるよ」
「……」
「あれ? また咳出そう?」
一向に動く気配のないことを不審に思い、振り返る。するとそこには唇を引き結び小首を傾げている沖田の姿があって、いかにも戸惑っていますと言わんばかりの沖田の様相に、思わず銀時は息を吐いた。
無論表情そのものに対してではない。鳶色の瞳に明確な意思がやどっているのが見て取れたのだ。
「あー、家出中なんだっけ。じゃあさ、銀さん家でも来る?」
「いいんですかィ」
「まあ、うちの方が全然近いし、今日は神楽もいねぇし。あ、神楽がいないって別に変な意味じゃないから」
「そういうこと言うと、余計怪しく聞こえますぜ」
ニヤリと口角をあげた沖田の顔は、だいぶ落ち着いてきたのだろう、生気が戻り心なしか色も良くなってきているようだ。銀時はおもむろに首にあてていた手を外すと、無言で顎をしゃくってみせた。
「乗れよ」
きょとんとしている沖田を促し背に乗せ、ゆっくりと立ち上がる。それから軽く体を揺すって調子を整えると、大通りに向かう為の一歩を踏み出した。踏み出したのだが、いかんせん人ひとり背負って歩くにはこの道は狭すぎる。銀時はぐるりと首を廻らせると、沖田に向かって訊ねた。
「……自分で歩く?」
「むにゃむにゃ」
「口で言う奴があるかよ」
苦笑交じりに言って、改めたように前を向く。歩きづらいだのなんだの言いながら、それでもなお沖田を振り落としたり置き去りにしたりしないのは、ひとえに目蓋の裏に焼きついて離れない光景のせいだろう。
細く頼りない体からまるで命を削り取るかの如く勢いで吐き出され、地面にへばりついた痰の数々の、白さばかりが目立つその中に、ほんの少しではあるが赤いものが混じっていた。あれは間違いなく血だ。
病気の、結核の知識など世間一般程度にしか持ち併せていないが、かと言って血を吐くという行為の事の重大さが分からぬほど馬鹿でもない。いや、厳密に言えば血を吐いたとは言わないのかもしれない。しれないが、それでも血が混じっていたのは事実であり現実だ。
きっと近い将来沖田は目を覆いたくなる程の量の血を吐き、床からでるどころか起き上がることすら困難になり、そして。
「歩き辛ぇな、チクショー」
投げやりに吐き捨て、近くに転がっていた空き缶を明後日の方向に蹴飛ばした。振り上げた足を下ろすついでに、靴底で僅かばかり地面を削る。入って来た時よりもずっと狭く長く感じられる道を、入って来た時よりもずっと慎重な足取りで辿って行った銀時は、元いた路地裏に出たところでいったん立ち止まるとふと空を仰いだ。
「隠れちまいやしたね」
「あ、起きてたんだ」
「オリオン座を見ようとしたんでしょう」
「俺ァてっきり寝てるもんだと」
「雲が多いですからねェ。ま、たとえ晴れててもここからじゃ良く見えないと思いますが」
あ、そう。噛み合わない会話を生返事で飲み下す。銀時は、心の中でほんの少しだけ唇を尖らせた。別にオリオン座など今日見なくともいいのだが、見ようと思えばいつでも見られるのだが、見ようとした時に見えないというのはどうにも寝覚めが悪い。なんとなく損をした気分になる。
「つい今しがた」
「ちょっと、急に話を戻すのやめてくれる。読んでる人に銀さん寝てる人と会話してるって思われちゃう」
「なんでちょっとカマ入ってるんですか」
呆れるような面白がるような口調でそう言うと、沖田は自らの額を銀時の肩口に押し付けてきた。肩から胸にかけて垂れていた腕が背中に回り、折り畳まれる。一瞬生じた後ろに引っ張られるような感覚は、着物を掴まれたからだろう。
「なに? そんなに面白かった?」
「ええ、とても」
「そりゃ良かった」
目を伏せ、口の中で言葉を転がす。それから前を見やり、大通りへと伸びる道に視線を投げた。
あと二十、いや、もう少しあるだろうか。
踏み出すと同時に歩数を数え始めた銀時の、風で遊ばれた髪がかかった耳に大きく息を吸い込む音が聞こえてきたのはその時だった。
「オリオン座になりたかったってアレ、過去形じゃないでしょ」
息を吐き出す前に差し込んだ指摘が意外だったのだろう。背後で身を硬くし、息を呑む気配がした。
「さすが旦那だ。人の心を見透かすとは」
しばしの沈黙の末に沖田は言った。
「ありがちな話ですけどね、医者に余命を告げられて初めて俺は俺も死ぬんだと思いやした。これまでもずっと身近にあって、だけどどこかで自分とは関係ない、遠いと思っていた死が一足跳びに自分に迫ってくる感じがしてそうしたら途端に死ぬのが怖くなりやした」
沖田はそこで一度言葉を区切り、銀時の肩口に押し付けていた額を浮かしたかと思うと、すぐにまた押し付けた。オリオン座に、と言いかけて口を噤み、怖くなってと言い直す。
「考えて、それで、思い出したんでさァ。オリオン座のことを。オリオン座になりたかったことを。……オリオン座になれるなら、死ぬのも悪くないって思いやした」
沖田の声は内容に反して単調で平坦で湿り気のひとつもなくて、そこからなんの感情をも窺い知ることができない。何か言った方がいいのだろうか。こんな時、なんと応えればいいのだろうか。
答えを求め、酸素を求め、銀時はあえぐように空を見上げた。上空はここよりもずっと風が強いのだろう。先ほどよりも明らかに雲の量が減っており、流れる雲の切れ間でちらりちらりと星が瞬いているのが分かる。
銀時は鼻から空気を吸い込むと、時間をかけてゆっくり吐き出し、それから、声には出さずに唇を動かした。
俺が、お前を。