熱を帯びる

 熱を帯びる


 実を言うと、随分と前から目は覚めていたのだ。
 にも関わらず寝ているフリをしていたのは、だるいとか苦しいとかそういう、病人故の理由ではなくて。ただ単に起きるのが面倒だったから。姉上だと思って、用が済んだらあるいは寝ていると判断したらすぐに出ていくだろうと踏んでいたから。
 脳は覚醒しているのにいつまでも布団の中でだらだらしてしまう。なんて、よくある話じゃないか。
 誰に向けているのかも分からない、言い訳にもなっていない言い訳を心の中でひと通り並べ立てたところで、沖田は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
 先ほど聞こえた嫌と言うほど馴染んだざらついた声は、どうやら幻聴でも気のせいでも聞き間違いでもないらしい。沖田は面倒だと言わんばかりに息を吐き出すと、恐る恐るといった態で布団をめくった。
「やっぱ起きてんじゃねーか」
「チッ。ばれてたか」
「なんで舌打ちすんだよ。総悟、俺が部屋に入って来た時隠れただろ」
 いつもより幾分か高めのトーンの、どこか面白がるような口振りとは裏腹に、土方の手は沖田の前髪を優しく持ち上げた。
「熱はないみたいだな」
「……昼には下がってやしたから」
 少し冷たさのある厚い感触にしばし目を伏せていた沖田は、自分のおでこから土方の手をそっとはがすと、ベッドに片手をつき上半身を起こした。差し出されたペットボトルを受け取り、流し込む。それから自分の腹を指差し、言った。
「それに、今日はどっちかってぇとこっちですし」
「腹?」
「腹っつーか、胃でさァ」
 昨晩のことである。風呂あがりのデザートを求めて台所に足を踏み入れていた沖田は、冷蔵庫をあさりながら、背中に注がれている視線に目を瞬かせた。
 何かついているのだろうか。それとも、髪をろくに乾かしていないことを咎められるのだろうか。
 迷った末に選んだ桃のゼリーを片手に携え、食器乾燥機から洗ったばかりのスプーンを引っ張り出しながら姉のミツバに疑問を投げかける。するとミツバはスポンジを動かす手を止め、
「そーちゃん、顔が赤いけど大丈夫?熱でもあるんじゃないの?」
 思わぬ返しに沖田は目を瞬かせた。引っ掛かった単語を唇から剥がすように反芻し、心もち首を反らしながら自分の額に触れてみる。なるほど。確かに少し熱いかもしれない。沖田は下唇を僅かに突き出し、小さく鼻を鳴らした。
 水道の止まるキュっという音が響いて、冷蔵庫のモーター音の主張が強くなった。横から手が伸びてきたと思ったら細い眉が顰められ、ほらやっぱりと咎めるような心配するような声を残して離れていった。
「こんなに熱いじゃない。寒気は? 寒気はしないの?」
 不安げに眉根を寄せたミツバに訊ねられ、沖田の口から今度はンン、と言葉になり損ねたような声が漏れた。
 いや、ミツバの指摘がある程度的を射ているのは事実で、確かに寒気を感じてはいるのだ。しかしなんというか、先ほどから続いているこの寒気が推測の域を超えないとは言え熱から来ているものとは思いもよらず、というか湯冷めから来ているものだと思っていた為、どうにもこうにも上手い返しができないのである。
「そーちゃん、ちゃんと熱計ってね」
「わかってまさァ」
 沖田は渡されたラップを後ろの引き出しにしまうと、追いかけてくる声を片手で受け止め振り返した。リビングに戻り、棚に収められているいくつかの籠のひとつから体温計を引っ張り出した。
 いつも座っている席の斜め前の椅子に腰をおろし、果汁がこぼれぬよう注意を払いはらい蓋をはがす。半透明の柔らかなゼリーを果肉ごと口に含めば途端にほのかな甘みが広がって、自然と頬がゆるんでいく。
「どこのだ」
「は? 普通にコンビニのですけど、なんでですかィ」
「いや、単純に美味そうだなと思っただけなんだが、悪い続けてくれ」
 肩を竦めた土方に続きを促され、沖田はわざとらしく首を傾げてみせた。
「あー、それで、熱の方は」
「39度8分」
「けっこうあるな」
「俺も、最初見た時ちょっとびっくりしやした」
 39度8分。電子音とともに表示された数字の予想外の高さに、沖田の口からマジでかと驚きの声が漏れた。ゼリーを食べたら二階に上がり、面倒だが英語の予習を済ませてしまおうと思っていたのだが、これは早めに床についた方がいいかもしれない。
 とはいえ、沖田はこれまで大きな病気ひとつどころか、学校もほとんど休んだことのない健康優良児である。一晩休めば明日の朝には熱も下がり、全快していることだろう。
「って、高を括ってたのがまずかったみたいでさァ」
 沖田は両手を後ろにつき、天井を仰いだ。
 翌朝、つまりは今日。どうやら無事熱は下がったようだと安堵したのも束の間、ふと覚えた違和感に沖田は階段の途中で一瞬足を止めた。
 全身に満遍なく行き渡っていた熱が一点に集結し、纏わりついてくるような締めつけられているような、この不快感はなんだろう。内心首を傾げつつ、平熱を示している体温計をミツバに提示した。
 吐き気を催したのは歯を磨いていた時のことで、沖田は不意に込み上げてきたものの正体を理解するよりも早く、歯ブラシを離し、口元を押さえ洗面台に顔を近づけた。
 清涼感のあるミントの香りとすえた吐瀉物の臭いが混じり合い、鼻をついた。眉を顰め、奥歯を噛み締める。洗面台を水で流し、口の中をゆすぐ。顔を覗かせたミツバの、後はやっておくからという言葉に促されるままに病院に行く支度を済ませると、沖田はいそいそと車の助手席に乗り込んだ。
 シートベルトを締め、ベージュ色のシートに身を預ける。ゆったりと走り出した車の中で、ラジオから聴こえてくる声になんとはなしに耳を傾けながら、静かに目を閉じた。二十分足らずの間に短い夢をいくつか見た気がするが、内覚は覚えていない。
 沖田は傍らに放り出したままでいたペットボトルの残りを飲み干すと、姿勢をやや前に傾けた。
「病院で小耳に挟んだんですけどねィ、最近、胃にくる風邪が流行ってるそうですぜ」
「へぇ。そういや、銀八の野郎が他のクラスでも休みが多いらしいつってたな」
「なんか面白いことありやした?」
 脈絡のない質問に、横にあったクッションに置かれていた土方の指がついと離れた。開き気味の瞳孔が思案で左右に揺れ、ややしてから口角がこれみよがしに持ち上がる。
「面白いかどうかは知らねーが、覚えてろって。加藤が」
「なんでぇ、そりゃ」
 英語の授業の件だと想像に難くないが、フィクションでしかお目にかかれないような言い回しに、つい噴き出してしまった。
 音読や問題を解く際など出席番号順にあてられるのがデフォルトとなっている授業で、本来ならば沖田があてられるべきところを、代わりに指名されたのが余程不満だったのだろう。なにせ英語を担当している教師は発音に厳しい上に、ひとつの問題をしつこいくらいに掘り下げていくタイプなのである。
「あ、そういえば先生、次の授業で総悟のことあてるとか言ってたぞ」
「え」
 肩まで浸かっていた優越感が唐突に崩されていく感覚に、沖田の口から濁点交じりの驚きがこぼれ落ちた。色素の薄い瞳に白い灯りが四角く切り取られ、半開きの唇がわなわなと震え始める。
「……誰を」
「総悟を」
「誰が」
「先生が」
「は? でも、加藤が覚えてろって」
「それはそれで嘘じゃねーよ。昼休み、用があって職員室に行ったらちょうどお前の話題が出てな」
「次の時にあてるって?」
 引き継いだ言葉に返事はない。返事はないが、これは肯定ととらえて差支えないだろう。可能ならば次の授業の際、指名された瞬間に不満やら毒のひとつでも吐き出したいところだが、抗議したところで英語のできないお前のためを思ってなどと軽くあしらわれるのが関の山だ。
 沖田はペットボトルをゴミ箱めがけて放り投げると、喉から母音を絞り出しながら、背中から後ろに倒れた。
「どうせなら飛ばしてくれればいいと思いやせん? ねえ、土方さん」
 天井に向かってぼやく。足をばたつかせ上半身を起こしながら同意を求めれば、土方は困ったように数度目を瞬かせ、それから、「あー、それもそうだな」と語尾を濁した。
「ていうか俺は面白い話がないかどうか訊いたんですが」
「だから面白いかどうか分からないって言ったろ」
「くそ、他人事だと思って」
「そりゃ他人事だからな」
 土方はどっこいしょと立ち上がると、床に転がったままのペットボトルを拾い上げ、しばし迷った末にそれを机の上に置いた。そのままベッドに近付いてきたかと思えばまっすぐ腕が伸びてきて、頬を指でつつかれた。
「悪かった。そう怒るなよ」
「別に怒ってねーし」
「じゃあこれはなんだよ」
 からかい口調で言って、土方は頬にあてていた指を沈ませた。
 ぽしゅっ。膨らませていた頬がへこみ、たまっていた空気が一瞬で抜けていく。そのなんとも言えない間の抜けた音に思わず噴き出しそうになり、沖田は咄嗟に下を向いた。
「おい」
 冗談のつもりが機嫌を損ねてしまった。そんな風に映ったのだろう。総悟と名前を呼んだ土方の声が、戸惑いと不安で微かに揺れている。沖田はにやけそうになる口元を引き締めると、こちらを覗きこむように腰をかがめてきた土方の、触れそうで触れない距離を保ったままとどまっている右手を掴み、自分の方に思い切り引き寄せた。
 バランスを崩した体を支えるようにしながら、もろともベッドに倒れ込む。あわてて自分の上から退こうとする土方を制し、すかさず背中に腕を回した。
「そ、」
「この前見た動画に、彼女の看病をしてるうちにムラムラきてってやつがありやしてね」
 名前を呼ばれるよりも早く、矢継ぎ早に淡々と、言葉をつむぐ。身じろぐ気配に力を緩めれば、困惑と疑問をたたえた瞳と目が合った。
「悪ィ。よく聞こえなかった」
 ハッとしたように開いた唇に人差し指で蓋をする。沖田は小首を傾げると、ゆっくりハッキリけれども小声で一語一語置いていくように丁寧に、「セックスしましょうか」と言った。
「は?」
 数秒の間があいて、土方の口から疑問符がこぼれ落ちた。
 あからさまにまばたきの回数が多い。混乱した頭や、思いもよらぬ状況を整理したり咀嚼したりする時などにしばしば見られる土方の癖のようなものだ。
「もう一回言いやしょうか」
 唇にあてていた指を外しつつからかうようにそう言えば、土方は耳を赤くして首を振った。
「いや、いい。遠慮しておく」
「そうですかィ」
 言って、沖田は小首を傾げた。小首を傾げ、それからふと目を伏せた。土方に気取られぬよう口元だけにいたずらめいた笑みを浮かべ、探るようにそろりと膝を立てた。
 膝の先が狙った箇所を掠めたのだろう。土方が腰を引いた。喉仏が上下して、唾を呑みこむ音が響く。制服の前ボタンを外そうと伸ばした手はあっさり取られ、
「おい」
「なんですかィ」
「なんですかィ、じゃねーよ。つーか何がどうなってんだ。どこでスイッチが入ったんだ」
「男子高校生ってのは全身が性欲スイッチみたいなもんですからねィ」
「いや、ちょっと意味が」
 分からない、と続けようとしたであろう土方の言葉は、空気を読まない沖田の腹の虫によって掻き消された。
 書き文字で表すならばへご~だろうか。きょとんと顔を見合わせ、どちらともなく天井を見上げる。先に立ち上がったのは土方で、差し出された手を取れば、宙に浮く勢いで引っ張り上げられた。
 タイミングよく聞こえてきた夕飯を告げるミツバの声に返事をしつつ、沖田もベッドから降りた。
「晩飯なんでしょうね」
「うどんだっつってたぞ」
「へぇ。あ、もしかしてあんた、ご相伴に預かるつもりですかィ」
「いや、帰るつもりだけど」
「すぐ行くんで、先行っててくだせェ」
 かぶせるようにそう告げれば土方は呆れたように嘆息し、それから、わかったと口を動かした。
 ドアの開く音がして廊下の冷えた空気が流れ込む。乱れた布団を直そうと手を伸ばした沖田の耳に、土方の声が突き刺さったのはその時だった。
「……今度の金曜日、うち誰もいねーから」
 返事をする間もなくドアが閉まって、階段を下りていく音が鼓膜を揺らした。にやけそうになる口元を引き締め布団を直す。あさましい話だが、土方の囁くような声に心臓はもう熱を帯びはじめていた。
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