あたりが出たら、もう一本
「なんじゃこりゃ」
目の前に現れた“よち”の二文字に、沖田は目を瞬かせ首を傾げた。
当たり付きアイスの棒に書かれている言葉といえばあたりか大吉、あるいは特定の商品を想定してのホームランなどが定番ではないだろうか。
生まれてこの方十八年、人並みかそれ以上に当たり付きアイスを食べてきた自負が沖田にはあるが、よちなどという言葉にはただの一度も遭遇したことがない。
頬を膨らませるようにしながら、眺め透かすように棒を掲げてみる。
よち。ヨチ。予知だろうか。余地だろうか。
真っ先に思い浮かぶのは予知であるが、もしかしたら余地の方で、この棒を見せたらどこかのお偉いさんから余っている土地がもらえる、などということがあるかもしれない。
「……まあ、いいや」
いずれにせよ駄菓子屋に戻れば済む話だ。沖田はひとりごちると目を眇め、多くの人で賑わっている大通りに目を向けた。
三歳くらいだろうか。母親の後をついて歩いていた幼児が不意に足をもつれさせ、勢いよく前につんのめった。転んだ拍子に開かれた手から離れた風船が、澄みきった空に吸い込まれていく。見る間に小さくなっていく赤色を、なんとはなしに見送っていた沖田は、視線を通りに戻したところで「おや」と目を丸くした。
曲がり角からよく知りたくもないよく知った男――土方十四郎――が出てくるのが見えたのだ。
煙草でも切らしてるのだろう。土方は随分と苛立っている様子で、ただでさえ開き気味の瞳孔をこれでもかとかっ開き、周囲の人間にあたり散らさん勢いで歩いている姿はさながらヤのつく職業のそれである。
沖田は、口角が持ち上がるのを自覚した。土方の行動がおかしかったからではない。いや、それもあるにはあるのだが、どうやら土方の方は沖田の存在に気付いていないようなのだ。ならばイタズラでもしかけ、驚かせてやろうと思うのが人の常というものだろう。
沖田は意識して唇を引き結ぶと、手に持っていたアイスの棒を無造作にズボンのポケットに押し込んだ。押し込んで、視線を上げ、今度は「あり?」と首を傾げた。大通りを歩いていたはずの土方が、曲がり角から出てきたのである。
煙草でも切らしているのだろう。土方は随分と苛立っている様子で、ただでさえ開き気味の瞳孔をこれでもかとかっ開き、周囲の人間にあたり散らさん勢いで歩いている姿はさながらヤのつく職業のそれであり、つい先ほど見た光景と寸分と違わない。
沖田はポケットに手を伸ばしかけ、やめた。土方と目が合ったのだ。
眉間に皺を寄せ、あからさまに迷惑そうな顔をしてみせたのだが、通じなかったと見える。人混みを縫うようにしてこちらに近付いて来たかと思うと、土方はおもむろに煙草を取り出し、「暇そうだな」と煙を吐き出した。
「これが暇そうに見えるんですかィ」肩を竦めつつ沖田は答えた。「善良な市民を見守ってるところでさァ」
「とても、そうには見えねーが」
「……煙草持ってたんですね」
「は?」
「独り言でさァ。時に土方さん、あんた」
その時、視界の隅で何かが動いた。ハッと顔を上げ、咄嗟に左に避けた。何も起こらない。見れば土方が怪訝そうな顔でこちらを見つめていて、やはり何かが変だと伸ばした手がポケットに触れるよりも一寸早く、飛んできた物体が土方の頭にぶつかった。
「……ッ、オイこれ投げたのどこのどいつだ!?」
いきり立ち、雑踏へと踏みこんで行く土方を尻目に、沖田は今度こそポケットからアイスの棒を取り出した。予知。ひらがなで書かれていたはずの二文字が、いつの間にやら漢字に閉じられ、心なしか色も濃くなっているようだ。
犯人探しに失敗したとみえる。苛立ちを隠しきれない様子ですごすごと戻って来た土方は、沖田の手元に目を止めると、いい御身分だなと言わんばかりに鼻を鳴らした。
たかだか百円にも満たないアイスを食べてたってだけなんですけどねィ。心の中でそう呟き、沖田は、足下でふてぶてしい顔をしているまねき猫をつま先でつついた。
「これ、どういう意味だと思いやすか」
不意に突きつけられたものに驚いたのだろう。土方の肩が大きく跳ねた。ごまかすような咳払いがひとつあって、ピントを合わせるように体が引かれる。コンマ数秒にも満たない短い沈黙の後に、
「そのまんまの意味だろ」想像通りの返事があった。
「そのまんまっつーと」
「だから、予知つったらアレだろ。未来が見えるとかそういう」
「? もしかして、俺が自分で作ったと思ってるんですかィ」
「他に誰がいるんだよ」
「だからあんたは土方なんでさァ」
沖田はこれみよがしに肩をすくめてみせると、何やら喚いている土方を無視して、大通りに目を向けた。
相変わらず人が多い。街を行く人たちの歩みが幾分かのろく感じられるのは、人の多さ故もあるのだろうが、それ以上に、先ほどから強さを増している風の影響が大きいのだろう。
さざめきの中に、悲鳴にも似た声があがり始めた。背後にある木からおばけの声が聞こえた。沖田は思案する素振りで唇にあてていた指をおもむろに外すと、土方さん、誘導するように上空を指し示した。
「つまり、総悟は未来が見えるようになった、ってことでいいんだな?」
「ありていに言えば」
咀嚼するような物言いに小さく頷いてみせれば、たちまち近藤の表情が喜色ばんでいく。近藤は前のめりになっていた上半身をのけ反らせると、大きく息を吸い込み、
「すごいじゃないか。なあ、トシ」
「すごいもクソもあるかよ」
飛んできた唾をぬぐいながら、土方が吐き捨てた。
「こいつのことだ。どうせなんか仕込んでたんだろ」
「あんたに信じてもらわなくても俺ァ全然構いやせんが。ところで土方さん、こんな時間から風呂ですかィ?」
沖田が指差した先、土方の髪から水がしたたり落ちた。
誰のせいで。立ち上がりかけた土方をなだめるように近藤の腕が広がる。土方の唇が無様に曲がった。歯軋りの音も聞き間違いではないだろう。土方はわざとらしい咳払いをひとつすると、改めたように姿勢を正し、近藤さんと声を潜めた。
「今夜の討ち入りに、総悟を連れて行こうと思ってる」
「俺は構わないが、総悟の方はどうなんだ」
「なんの話ですかィ」
不意に話を振られ、沖田はきょとんと首を傾げた。すると近藤も沖田と反対の方向、つまり鏡の要領で首を傾け、その眉は面白いほどに八の字だ。
「聞いてないのか?」
「なんにも」
「トシィ」
「……詳しいことは後で説明する」
土方はそう言っておもむろに立ち上がると、ついてこいと言わんばかりに顎をしゃくった。沖田は鼻を鳴らし、仕方ないとばかりに膝に手をかけた。けして土方に従ったわけではない。近藤が真面目な顔で口を一文字に結び、頼むと無言で頷くのが“見え”たからだ。
これがおよそ四時間前。日もとっぷり暮れすっかり夜の帳が下りた今、沖田がいるのはとある駄菓子工場の裏手だった。
時間も時間だ。終業時間はとうに過ぎているのだろう。電気は完全に落ち、機械が稼働している様子もない。にも関わらず外にまで人の気配が流れ出ているのだから、中にいる連中は手のつけようのないアホか雑魚か、もしくは相当ヤバい奴らなのだろう。
沖田はあくびをかみ殺そうとして、やめた。隣で同じく待機している土方に睨めつけられた。
「まだですかィ」
「さっき説明しただろ」
土方は苛立たしげ答えて、フッ、と上を見た。視界の端で金属のようなものが反射したのだ。
「突撃!」
土方が合図するが早いか、唸るような雄々しい声をあげて隊士たちが駆け出していく。
「御用改めである! 手向かうものは容赦なく斬り捨てる!」
あっと思う間もなく、あたりは喧騒に包まれた。
埃が舞い、刃と刃がぶつかる。血が騒ぐ。背筋が震える。獣に還っていくこの瞬間が沖田はたまらなく好きだった。死が隣にいるからこそ実感できる生を、沖田はとうの昔に知ってしまっているのだ。
「倉庫に急げ」
不意に耳に飛び込んできた声に、沖田は横から突っ込んできた男を薙ぎ払い、駆け出した。唇の端を舐める。どうやら相手は手のつけようのないアホだったらしい。
万能飴。あるいは青玉。そんな名前の飴が最近一部の攘夷志士の間で横行しているのだと、廊下を歩きながら土方は言った。
飴と言ってもむろん普通の飴のわけがなく、筋力、瞬発力、動体視力、思いつく限りのあるいはそれ以上のあらゆる力が漲り、文字通り万能になれるすごい代物なのだという。
要するに一種の麻薬だ。そしてその万能飴を密かに製造しているのが、この駄菓子工場というわけだ。
あちらも聞きつけたのだろう。反対方向から土方が走って来るのが見えた。
「神妙にしろ」
「真選組風情がッ、なにを抜かしやがる」
「おい、いいから運べ」
急かした攘夷志士の手はしかし、段ボールに届くことはなかった。沖田に腕ごと斬り落とされたからだ。血飛沫とともに困惑を孕んだ悲鳴があがる。沖田は悲鳴を消そうと男の心臓を突くと、抜きざま、今度は背後から斬りかかってきた男を殺めた。足下に転がっている死体をよけ、飛んできた切っ先をかわそうと跳ねた先で土方と肩が並んだ。
「おい総悟、目的を忘れてねーだろうな」
「わかってまさァ。こいつらを根絶やしにして、ブツを押収すりゃ、いいんでしょう」
「根絶やしと言った覚えはねーが」土方の頬に返り血が飛んだ。「まあ、そういうことだ」
そう言って笑った土方の眼に、ある種の光が宿っているのを沖田は見た。
ああ、土方もまた獣に還っているのだ。どこか冷静な頭でそんなことを考える。でなければあの土方が情報も聴き出さずに壊滅を許可するなど、あり得ない話だ。
もっとも、重要な情報は事前に取得済みという可能性もなきにしもあらずだが。
「よそ見とはいい度胸じゃねぇか」
「よそ見してる奴にやられるたァ、こいつらも大したことありやせんね。ねえ、土方さん、万能飴ってのは本当に万能なんですかィ」
「こいつらは下っ端みたいだからな。使わせても貰えないんじゃないか」
「なるほど。使ってこれだったら、救いようがねーですもんね」
「貴様らさっきから、」
「土方さんなにか言いましたかィ?」
「いや、なにも」
土方の口角が不敵にあがって、死体がまたひとつ増えた。
沖田は刀についた血を振って払い、それから、額に滲んだ汗を拭おうと手を伸ばしかけ、刀を振り下ろす男の姿と地面に崩れ落ちる土方の姿を見て――そこから先は、よく覚えていない。気が付けば病院のベッドに横たわっていて、最低でも三日は安静にしていろとは医者からのお達しだ。
「目が覚めたか」
頭上から降ってきた妙に優しい声に、背筋がぶるりと震えた。
髪に触れる手を払いのけながら起き上がれば、サイドテーブルに置かれているアイスの棒が目に入って、沖田は思わず微苦笑を浮かべた。
捨ててくれればいいものを。土方に向かって零しつつ、ゴミ箱にそれを投げ入れた。次はあたりが出ますように。心の中で呟きながら。