レモン味ではなかった

 レモン味ではなかった


 街中にあふれていた取り留めのない会話が、硝子戸の向こうに収束されていく。さっきまでの喧騒が嘘のようにしんと静まった短い廊下を抜け、居間兼仕事場に顔を出した新八は、おや、と首を傾げた。誰もいないのだ。
 つい今しがた通って来た玄関の様子を思い出す。靴と傘がなく、ブーツはあった。夕方になり多少涼しくなってきたから、神楽は定春の散歩にでも出ているのだろうが、では、銀時はどこに行ったのだろう。
 新八はぴたりと閉められたふすまに目をやり、鼻から息を吐いた。
「銀さんまだ寝てるんですか!?」
 声を荒らげながら、勢いよくふすまを開ける。途端に鼻をついたのは案の定アルコールの臭いで、踏み入れた和室の真ん中、ぐちゃぐちゃになった布団の上で鼾をかいてるのは紛れもなく銀時だ。
 新八は額に手をあてると、やれやれと言わんばかりに首を左右に振った。
 まったくこのマダオは。どこでいつまで飲み歩いてたのか知らないが、よくもまあ、この蒸し暑い中寝ていられるものだ。
 呆れ半分に感心しつつ、垂れてきた汗を拭う。それから新八は布団の側に立つと、銀時の顔を覗きこみ、微苦笑をこぼした。
「ひどいなぁ」
 思わずそう声に出してしまうほど、見下ろした寝顔はいつにも増してしまりがなく、口はだらしのない半開き、その端からはよだれが垂れ、おまけに腹まで出ている始末だ。
「銀さん」膝をつき、肩をゆする。「起きてください。いつまで寝てるつもりですか」
「んー」
 けれども銀時は唸るばかりで起きようとせず、そのくせ寝苦しさは感じているのだろう、時折不快そうに眉をひそめては、既に意味をなしていない掛け布団をはがそうと脚を動かし、空を切っている。
 見下ろしているという構図が関係しているのかもしれない。不意にいたずら心とでも呼ぶべき感情が湧いてきて、ふと銀時の眉間によった皺を押してみたくなり、新八は手を伸ばした。
 その時、銀時が寝返りをうち、反動で指が銀時の唇に触れた。新八はあわてて手を引っこめた。
 指が唇に触れたのはほんの一瞬、触れたというよりも掠めたと言った方が正しいくらいの、ほんの僅かな時間だ。
 にも係わらず新八の心臓は背後から驚かされた時のように早鐘を打ち、人差し指はまるで紙で切ったかのようにじくじくと熱を帯びている。
 親指で、人差し指に触れみた。熱い。おのずと息が上がっていく。背中を汗がつたった。見えない何かに引き寄せられるように、指が、薄く開かれた己の唇に近付いていく。
「……ッ!?」
 不意に人の動く気配がして、新八は思わず後退った。数秒の間。次の反応がないことを確認しながら、おそるおそる膝を進め、銀時の顔を覗きなおす。
「良かった」
 相も変わらず高鼾をかいている銀時を前にまず出てきたのは安堵の言葉で、少しだけ視界がクリアになり、少しだけ世界の影が濃くなったような気がするのは、意図せずとはいえ間ができたからだろうか。新八は大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。
 まったく、どうしてこんな、飲んで夕方まで寝こけているようなどうしようもないダメ人間に心を乱されなければならないのだろうか。
 自分の気持ちに気づいて以降、何度となくくり返し考えてきたことを自問する。本当に、何度も何度もくり返し考えてきたことだ。何度も何度もくり返しくり返し考えて考えて、そうして、まるで最初から決まっているのだろうと嘲笑うかのように行き着く答えはいつも同じで、いっそ、言葉にしてしまえたらと思ったことは数知れない。
 声に、出してしまおうか。
 己の内の悪魔がそう囁いた。治まったはずの心臓が再び暴れ出す気配に、新八はたまらず目を閉じた。頭上から蝉の声が降りそそいでいる。新八はおもむろに目を開けると、次いで、唇を開いた。浅く息を吸いこみ喉の奥に言葉を引っかける。目の奥に熱いものがこみあげてきて、
「……好きです」
 その熱がこぼれ落ちるよりも早く、新八はつぶやいた。
 蝉の声がいっそう大きくこだまする。
 全身から汗が噴き出し顔からは火が出そうなほどなのに、腹の底は妙に静かで落ち着いているのは、あれほど葛藤し続けてきた思いを、言葉にしてしまえた安堵によるものなのだろうか。
 いや、安堵というのもなんか違うな。新八はゆるく首を振り、今度は先ほどよりも小さな、伝えるというよりも自分で自分の気持ちを確認するかのような小さな声で、言葉をつむいだ。
「好きです」
「……」
「ッ!?」
 16年の人生の中で一番と言っても過言ではないくらいの驚きに、新八は文字通り跳ねた。
「ぎ、い、い、」
 二の句を継げないでいる新八をよそに、銀時はのそりと起き上がりわしゃわしゃと髪をかいている。それから欠伸をひとつこさえると、
「なに? なんか言った?」間の抜けた声でそう訊ねてきた。
「い、つから、聞いて、た、んですか」
 正面から覗きこまれ、顔からだらだらと汗を垂らしながらやっとの思いで言葉をつなぐ。銀時は一瞬視線を宙に漂わせたかと思うと、今度はわざとらしく目を合わせてきて、そして、何が?と首を傾げた。
 瞬間、全身がカッと熱くなる。聞かれた。聞かれてしまった。いくら相手が寝ていたと、寝ていると思ったとは言え、本人の前でなぜあんな、あんなことを口走ってしまったんだろう。なぜ、悪魔の囁きに耳を傾けてしまったのだろう。
 先に立たない後悔で圧迫されそうな胸ぐらを掴むと、新八は逃げるように顔を逸らした。……やっぱり気持ち悪いと思っただろうか。もしかしたら軽蔑したかもしれない。次の瞬間には人格を否定される可能性だって。
 浮かんでは積もっていく考えに、呼吸が浅く早くなっていく。だめだ。涙がこぼれそうだ。新八は下唇の内側を噛むと、目の奥に力を入れた。そのまま畳を睨みつけ、手のひらに爪を食いこませた。鼻の奥がツンと痛い。蝉の声が耳の中でわんわんと反響している。
 こんな気持ちを味わうくらいならば、いっそのこと、冗談はやめてくれと馬鹿にした態度で笑い飛ばしてくれた方がよっぱど楽になれるのに。そうだ今からでも遅くない冗談ということにしてしまおう。
「ぎん、」
「新八」
 低く湿った声で名前を呼ばれ、反射的に体がびくりと動いた。
「キスでもする?」
 未だ顔を上げられずにいる新八の耳に飛び込んで来たのはにわかには信じられない言葉で、
「……馬鹿にしてるんですか」
 辛うじて返した声は、無様に震えて目も当てられない。
「まさか」
 やっぱり馬鹿にしてるじゃないか。軽薄な口ぶりに体内の湯沸かし器が沸騰しかけたその時、銀時の大きな手が肩に向かって伸びてきて、あっと思う間もなく世界が反転した。
 あまりに突然の出来事に、状況を理解するのに5秒、目に見えた反応を示すのに更に5秒費やした。
「な、なにして、」
「新八を押し倒してる」
 ただの事実を述べる銀時の目は死んだ魚のそれで、その淡々とした口調からはうまく感情を読み取ることができない。
 視界の明度が一段と下がった。銀時がぐっと顔を近づけてきたのだ。新八の喉から声にならない悲鳴が迸り、けれども銀時の腕に阻まれ顔を逸らすことは叶わず、ならばせめて瞑ろうとした目は、まるで金縛りにあったかのように瞼ひとつ動かせない。
 銀時の指が頬から顎にかけて滑り落ちてきて、喉仏に触れた。触れたというよりも押した。ひどい圧迫感だ。抗議の意味をこめてせめてもと唇を開く。
 開いて、息を吸いこんで、這い上ってきた指に危機感を覚えた時には時すでに遅し。下唇を軽く撫でたかと思うやいなや、銀時は己の指を新八の口の中にねじ入れた。
「ん、ッ……ッ」
 歯列をなぞられ舌を上顎をねぶるように撫でまわされ背筋が震える。怖い。こんなことをしながらいつもと同じ死んだ魚の目をしている銀時が、何よりも怖いと思いつつ快楽を拾ってしまっている自分自身が。
 腰のあたりを重くしている熱を少しでも逃そうと、闇雲にシーツを蹴り上げる。時折鳴るくちゅりという水音が恥ずかしい。
「もしかして感じてる?」
「ッ、ん~~~~ッ」
 口の中を掻き混ぜられながら耳元でそう囁かれ、新八の目からいよいよ涙がこぼれ落ちた。だめだ、なんとかしなければ。これ以上許したら本当におかしくなってしまう。
「ふぇ、へ、……さいっ」
 新八は足の指でシーツをギュッと掴むと、1,2の、3、心の中のカウントに合わせ、渾身の力をもって銀時の腹を蹴り上げた。「ンぐッ」
「ッ、んの、……ッ、もり、ですか」
 ひるんだ隙に下から抜け出し、手の甲で口元を拭う。息を整える余裕もなくつむいだ言葉は不明瞭で、涙に濡れた世界が映す世界は、曖昧に溶けかけぼんやりと滲んでいる。
 新八は滲んだままの視界で銀時をまっすぐに睨みつけると、しゃくりを上げるように息を吸い、吐き出した。言うべき言葉が見つからなかったわけではない。心のうちに渦巻く気持ちが肺からあふれて気管につまって、次の一歩を鈍らせているのだ。
 だからだろう。銀時の手が伸びてきたというのに反応が遅れてしまった。親指が目尻をぬぐい、手のひらがするりと頬をすべる。
「……やっぱり、気持ち悪いと思いましたか」
「なんで」
「だからからかってキスしようだなんて」
「新八」
 遮るように名前を呼ばれ、そして、ほんの一瞬世界の影が濃くなった。
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