いつか光になるように

 いつか光になるように


 ひでおさん。英雄さん。自分の名前を呼ぶ声に、握野は閉じていた目をうっすらと開いた。
「……なんだよ」
「あ、良かった。寝ちゃったかと思いましたよ」
「大丈夫。ちゃんと起きてるから」
 そんなことより龍、椅子から落ちないように気をつけろよ。後半は声にはならず欠伸とともに飲み込まれていく。やっぱり、外に出るのが少し早かったんじゃないか。アウトドアチェアに沈みながら、重さを増していく視界が捉える世界はまだ薄暗い。
「英雄。起こしてやるから、寝てていいぞ」
 横から差し込まれた言葉に、自分がなんと答えたのか。そもそも返事をしたのか。何もかもが曖昧なまま、握野は一層深く目を閉じた。
 信玄と龍と、三人で日の出が見たい。そう言ったのは握野だ。
「これで、三人で日の出が見れたら最高なんだけどな」
 ホテルで食べた肉の美味さ、自分だったら今回のSASUGAをどう攻略したか、ビークロのこと、演技の難しさ、先日収録した歌番組について、もしもの温泉旅行の話。テントの中で繰り広げられていた取り留めのない会話の隙間、ふとこぼした握野の言葉に、「いいですね、それ!」と身を乗り出したのは木村で、信玄も「ああ。自分も賛成だ」と柔らかく目を細めた。
「ええと、日の出の時間は……あれ? おかしいな。さっきまで繋がってたのに」
「ここは山だからな。電波が安定しないのかもしれない」
「あっ、え、繋がったと思ったらエラー出ちゃいましたー」
「六時五分」
「え?」
「六時五分だよ。日の出の時間」
「もしかして調べておいたんですか英雄さん」
「悪いかよ」
 FRAMEで出かける場合、目的地に詳しい者がいない限り運転は立候補制となっているのだが、今回に限り握野は手を挙げることも許されず、どーんと構えていてください、のんびりしているといい、と荷物と一緒に後部座席に納められてしまった。それならばと道中で日の出の時間を調べたのだが、なんだか一人ではしゃいでるみたいで、今になって恥ずかしくなってきた。
「全然っ! むしろ助かりました」
 木村の大きな声が、ふん、とそっぽを向いた握野の耳を打ったのはその時だ。
「でも、いいのか? 俺のわがままに付き合わせちまって。他になんか予定とか」
「英雄の誕生日なんだ。英雄のやりたいことをするのが一番だろう」
「そうですよ。それに、三人で日の出を見るなんて最高に素敵だと思います!」言いながら木村がその場に立ち上がるものだから、握野はギョッとして目を丸くした。
「龍?」
 まさかもう外に出るつもりか。足元から声をかければ、木村からは、はい!と大きく元気な返事。キラキラと輝く瞳が眩しいが、まだ四十分以上時間があるのだ。さすがに早すぎないか。同意を求めて信玄の方を見た握野は、寝袋から這い出ようとしている彼の姿に、仕方ないと微苦笑を浮かべたのだった。
 そうして、どれほどの時間うつらうつらとしていたのか。自分の名前を呼ぶ声にまぶたを開いた握野は、自分の肩を揺さぶっている木村のかっこうを見て、「どうしたんだよ」と眉を顰めた。おおかた椅子から転げ落ちた、と言ったところだろうが。
「いやーなぜか椅子がぐらついちゃって」
 ほら、やっぱり。
「気をつけろよ。怪我はないか?」
 顔を拭われ一瞬きょとんとした木村だったが、手のひらについた土くれを見せてやると、「ありがとうございます! 大丈夫です!」と言って破顔した。そういえば、テントから出る時も入り口に躓いて転んでたな。気をつけて見ててやんねーと。
「英雄、龍」
 促すような信玄の声に、握野は木村に向けていた視線を山の方に移動させた。
「わぁ……!」と、感嘆の声をあげたのは木村だ。「綺麗ですね!」
「ああ。そうだな」
 同意する信玄の、噛みしめるような感慨に続こうとして、けれども握野は何も言うことができなかった。
 喉が詰まるような、鼻の奥がつんとするような。ともすれば息さえも忘れてしまいそうな感覚に、目頭が熱くなってどうしようもないからだ。
「なんだか俺、泣いちゃいそうです。って、アレ、英雄さん泣いてます?」
「な、泣いてねぇよ」
 木村に下から覗き込まれそうになり、握野はあわてて顔を逸らした。
「はは。だが確かに、泣きたくなるくらい、綺麗な夜明けだな」
「だから」違うってと否定しようとして、握野は口をつぐんだ。信玄が、この瞬間を見逃すなんてもったいないぞと言わんばかりに、指先を空に向けているのだ。促されるままに再び視線を山の方に戻した握野は、アウトドアチェアから降りながら、確かにこれは、一瞬足りとも見逃すのが惜しいなと感嘆の息を吐き出した。
 山の稜線が光を帯び、オレンジ色した太陽がゆっくりと昇っていく。空が、世界が、明るくなっていく。
「きれいだな」
「はい」
「ああ」
「……うまく言えないんだけどさ、俺、日が昇ることが、朝が来ることが、希望なんだって子どもたちに思ってもらえるような、そんな歌が歌えるように頑張るよ」
 深夜の繁華街でなぜこんな時間に出歩いているのかと訊ねた握野に、朝が来るのが怖いからと答えたのは十七歳の少女だ。
「朝が来るのが怖いから、夜に逃げてんの。このまま眠らなければ朝なんか来ないんじゃないかって」
 そんなわけないのにねー。そう言ってカラカラと笑ってみせた少女は、けれども、「どうして」と重ねた握野の問いにはついぞ答えてくれなくて、ただお巡りさんにはわかんないよと伏せたまぶたの、隙間から見えた瞳が寂しげに揺れていたのがひどく印象に残っている。
「今年の抱負ってやつですか」
「英雄ならできるさ」
「俺、英雄さんの歌を聴くとあったかい気持ちになります。応援されてるみたいって言うか」
「へへ。ありがとな。俺も、信玄と龍となら叶えられると思ってるぜ」
 希望だと思った。信玄と龍と三人でみる日の出は泣きたくなるほど眩しくて、美しくて、これから訪れる未来が明るいことを示してくれているのだと、そう思った。
 繁華街にいたあの少女だけではない。どこかの街で、部屋で、朝が来なければいいと怯えている子どもはまだまだたくさんいるだろう。そんな子どもたちにとって、いつか、希望の光になれたなら。
 祈りにも似た気持ちとともに、握野は三月七日の朝をまぶたに焼きつけた。

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