春を切りとる

 春を切りとる


「だから、ここを知っていたのは偶然なんです」
 不意にはっきりと輪郭を持って聞こえてきた木村の声に、握野はあちこち見回していた視線を戻して「うん?」と曖昧に頷いた。
「聴いてました? 俺の話」
「あー、悪ィ」
「もー。気持ちはわかりますけど」
 木村の頬が空気を含んで軽く膨らみ、相好が崩れてすぐにしぼんだ。「きれいですもんね、桜」
 そう言って木村が示した指の先、二人が歩いている参道の脇には、見頃を迎えた薄桃色の花が咲き誇っている。大通りから外れた、少し奥まった場所にある小さな神社の境内。短い階段を登った先に広がっていた景色に、握野は一瞬で目を奪われ、圧倒されていた。隣を歩く木村の言葉を拾い損ねるくらいに。
「龍。さっきの話なんだけど、もう一回言ってくれないか」
「もちろんいいですよ。英雄さん、よく知ってたなって言ったじゃないですか。ここに来た時。俺、前にロケでこの辺りを散策したことがあって」
 握野の申し出に後ろで手を組み、歩幅を大きくしながら、木村は続ける。
「ほら、雨彦さんと一緒だった」
「あー、あれってこの辺りだったのか」
 平日のお昼に帯で放送している情報バラエティ番組のワンコーナー。地元の人に数珠つなぎにおすすめの店を紹介してもらうというコンセプトのロケに、木村と葛之葉がゲストとして出演した時の話だ。なにぶんあまり見かけない組み合わせだったので握野の印象にも残っている。
「その時にこの神社にも寄ったんですよ。カットされちゃったんですけど、もう少ししたら桜がきれいだろうって雨彦さんたちと話してて。まあ、俺も忘れてたんですけどね。でもさっき英雄さんが」
「なるほどな」
 木村の言葉尻を引き継ぐように、握野は頷いてみせた。
「あ!」
 対面に座る木村が唐突にあげた声に、握野がナイフを動かす手を止めたのは少し前のことだ。
 今日は、正午からユニット揃ってのラジオへのゲスト出演があった。生放送も無事終わり、次の現場に向かう信玄とプロデューサーを見送ったその足で、木村を誘って向かったスタジオ近くのハワイアンダイナー。昼食にはやや遅く、おやつにはまだ早い時間帯だったことも手伝ってか店内は空いており。人もまばらな店内に、木村の声はそれはそれはよく響いた。
「なんだよ急に。でかい声なんて出して」
「すみません」木村はしまったと言わんばかりに口を両手で塞ぐと、周囲をうかがいつつ声をひそめてこう言った。「英雄さん、この後時間ありますよね? 俺ちょっと行きたいところがあるんですけど」
「ああ。もちろんいいぜ」
 頭の中で今日の予定を反芻し、二つ返事で同意して。そうして今に至るわけだが、なるほど、ハワイアンダイナーで握野が食べていたのはこの季節限定の桜パンケーキだ。突然大きな声を出された時は何事かと思ったが、要するに、桜色のホイップクリームと桜を模した苺が飾られたパンケーキを見て、本物の桜とこの神社を連想したということだろう。
「こんなことよく知ってるなと思ったけど、そういうことか」
 握野は納得したと呟くと、そのまま横道に逸れ、境内の中でも一際大きな桜の木の前で立ち止まった。薄桃色の花が頭上いっぱいに広がっている。枝の隙間に見える空は目がくらむほどに青く澄み鮮やかだ。握野は隣に並んだ気配を一瞥すると、はらりと舞い落ちてきた花弁に手を伸ばそうとして、やめた。
「きれいですよね」
 咲き誇る桜を見上げたまま、同意を求める木村の声に応えようとして、握野は反射的に肩を跳ねさせた。木村が、自分の小指を握野の小指に絡ませてきたからだ。思わず顔を見ると、木村はいたずらっ子のように口角を持ち上げ、
「デートみたいですね」と囁いた。
「誰かに見られたらどうするんだよ」
「大丈夫。誰もいませんよ」
 咎める握野に対して、木村の態度はずいぶんとあっけらかんとしたものだ。確かに木村の言うとおり、大通りから外れたこの小さな神社は都心にあるのが嘘のように閑散としておりひと気もない。
「だからって、なぁ」
「ダメですか?」
 なおも渋っているところに子犬のような瞳で覗きこまれ、握野は後ろに身を引きグッと息を呑みこんだ。手のひらを指で撫でられ、たまらず奥歯を噛みしめる。ずるいだろ、こんなの。
 それに、と握野は小指からそっと視線を逸らすと、地面に落ちている花弁を見た。木村が人目のあるところで手を繋いでこないことは、十二分に承知している。木村の態度を口では咎めながらも、絡んだ小指を振り解こうとしないのは、嬉しいと思う気持ちを否定できないからかもしれない。お互い多忙な日々が続き、仕事以外でろくに会えていなかったのも事実だ。
「ねえ、英雄さん」
 甘えた声で名前を呼ばれ、握野は逸らしていた視線を戻した。
「なんだよ」
「キスもしていいですか」
 握野が応えるよりも早く、絡まっていた小指がほどかれた。あっと思う間もなく肩を掴まれ、優しく、けれども有無を言わせぬ強さで向かい合う形に誘導される。
「もちろん、無理にとは言いませんけど」
「その聞き方は反則だろ」
「じゃあいいんですか」
「いや、だって、お前。ここ外だぞ。手を繋ぐくらいならまだしも」
「さっきは手を繋ぐのもためらってました」
「人の揚げ足を取んな」
「イテッ」
 握野が木村の額をはたくフリをするのと、木村が両手で額を押さえて仰け反るのと、ほぼ同時だった。なんだよそれ、あたってもいないのに。木村の大袈裟なしぐさが妙におかしくて思わずふはっと息を漏らせば、握野の笑いが伝播しそうになったのだろう。木村はゆるみかけた口元をごまかすように手で額を拭うと、
「もー。せっかくの雰囲気が台無しじゃないですか」と、頬を膨らませてみせた。
「雰囲気なんてあったか?」
「ありましたよ。俺、あとちょっとで英雄さんとキスできるかもって思いましたもん。あ、でも」
 木村は目を伏せ、英雄さんが、と言った。
「嫌ならしないってのは本当ですよ」
「お前、やっぱずるいだろ。そりゃ俺だって、キス、するのが嫌って」
「わけじゃないけど、恥ずかしい?」
 言葉の先を掬いとられ、けれども素直に頷くのはどうにも癪で、少し間を空けてから握野は首を縦に振った。
「英雄さんかわいい」
「どこがだよ」
「全部ですよ」
 ぜんぶ、と返してきた木村の声の思いがけない柔らかさに、握野は目を瞬かせた。木村の目が愛おしくてたまらないといった様子で細められ、英雄さん、と大きな口を形作っている唇が握野の名前を紡ぎだす。
 その声はやはり柔らかく優しく、同時に艶を持っていて。握野は、自分の中の天秤が片側に大きく傾くのを自覚した。頭に浮かんできた言葉が適切かどうかちょっと自信がないが、これはもう、覚悟を決めるほかないかもしれない。
 木村の手が伸びてきて、握野の頬にそっと触れた。輪郭をなぞるように手が動く。機嫌を窺うようなその動きに合わせ、犬や猫がじゃれつくかのごとく頬をよせてみれば、触れている箇所、木村の手のひらの体温が一度上がったような気がして。握野は伏せていたまぶたを持ち上げると、正面から木村の姿を捉えた。
 夕焼けだ。夕焼けを思わせる瞳が確かな熱を持って自分を見つめている。境内で咲き誇っている、思わず目を奪われてしまう桜の花には目もくれず、自分だけを映している。背筋の震える思いがした。思っているよりもずっと自分は嬉しく思っているのだと、この先起こる展開に期待しているのだと、この時握野ははっきり自覚した。
 風が吹いた。木々が揺れ、薄桃色の花弁がはらはらと舞い落ちていく。
「龍」
 握野は差し出すように恋人の名前を呼ぶと、静かに目を閉じた。顎を気持ち上げ、しばし待つ。添えられていた手が頬から離れた。軽く腕を掴まれ、そうして唇が触れた。額に。次いでまぶたに。反射的に強く閉じたまぶたから、チュッと音をたてて唇が離れる。キスってそういうことかよ。拍子抜けしたような、面食らったような気持ちで閉じていた目を開いた握野が、しかし次の言葉を継ぐことができなかったのは、何か言うよりも早く木村の唇で己の唇を塞がれたからにほかならない。
 最初は、数秒にも満たないような短い時間だった。キスと言っていいのかもわからない、掠めたと形容した方がいいくらいのわずかな触れ合い。二度目は一度目よりも長く、唇同士を押しつけあうようなキスで、甘い痺れが腰から背骨にかけて這い上がってくるような感覚に握野は戸惑い、すぐに受け入れた。
「英雄さん」
 熱っぽく名前を呼ばれ体温が上昇する。腕を掴んでいた木村の手が後頭部に回って、二人の距離がグッと縮まった。ここは外であると恥ずかしがっていたことなどもはや頭の片隅に追いやられ、花吹雪でぜんぶ隠れてしまえばいい。なんてことを考える始末だ。
 握野がハッと我に返ったのは、木村の舌が口の中に入りこもうとした時だった。薄く開いた唇から侵入してきた木村の舌が自分の舌先に触れた瞬間、握野はほとんど反射的に木村の体を突っぱね距離をとっていた。
「これ以上はまずいだろ、さすがに」
 口の端を手の甲で拭いながら注意すれば、木村はハッとしたように目を丸くして、
「すみません。調子に乗りました」
 と頭を下げた。頭の上にしゅんと垂れた犬の耳が見えるようだ。以前、道行く人に吠えて龍に叱られたジョンも同じような顔をしてたっけ。やっぱり龍とジョンは似てるな。握野はなんだか愉快な気持ちで、りゅう、と木村の肩をたたいた。たたいて、上体を起こした木村の唇に一瞬、自分の唇を重ねた。
「ひ、英雄さん!?」
「ほら、せっかく来たんだから参拝して行こーぜ」
 何か言われるよりも早く、伸びかけの手をするりと躱し、境内の奥へと進んでいく。そうして十歩ほど進んだところで、握野は立ち止まった。いっこうに木村の足音が聞えてこないのだ。
 ちょっと目を離した隙にまた何かトラブルにでも巻きこまれたか。いぶかしんだ握野が振り返ろうとしたその時、
「英雄さん」
 振り返ると同時に、シャッター音が響いた。
「なにしてるんだよ……ふッ」
 近づいて木村の手元を覗きこむ。思わず吹き出してしまったのは、木村が手にしている携帯電話の画面、そこに写し出されている自分の姿がもののみごとにブレているからだ。
 ブレているだけではない。タイミングがいいのか悪いのか。握野の目と口のあたりに桜の花びらがかぶってしまっている。
「おっかしいなぁ。上手く撮れたと思ったのに。英雄さん、もう1枚いいですか」
「いいけど、龍は? 一緒に撮らないのか?」
「俺が、英雄さんを撮りたいんです」
「そっか」
 木村の熱意と決意のこもった瞳に押され、握野は踵を返した。このあたりだったか。握野は、先ほど振り返ったあたりで再度立ち止まると、改めたように桜を見た。木村は英雄を撮りたいと言っていたが、こんなに見事に咲いているのだ。あとで二人でも一緒に写真を撮って、信玄とプロデューサーに見せてやりたい。今日の収録は長丁場になりそうだと言っていたからきっと元気がでるだろう。きっと木村も快諾してくれるはずだ。
(あ、でも。龍のやつちょっと拗ねちまうかな)
 いいですけどと言いながら、せっかくの二人だけの時間なのにと、拗ねてる姿が容易に想像できる。もしその時は。
 甘い熱を思い出はじめた唇にそっと触れながら、握野は待った。木村が自分の名前を呼ぶその瞬間を。
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