エンドロールのこちら側

 エンドロールのこちら側


 エンドロールが終わって画面が暗くなった。いい映画だったな。胸に湧き上がっている感動を共有しようと隣を向いた握野は、横から差し出されているティッシュペーパーを見て、次いで、それを差し出している男の顔を見た。
「なんだよ」
「英雄さん、泣いてるかと思って」
「泣いてねーよ」
 何度か危ない場面はあったが、涙は流していない。
「別に恥ずかしがることじゃないじゃないですか。俺は、ちょっと泣きましたよ」
 そう言って木村が手に持っているティッシュペーパーで自分の鼻をかむものだから、握野は少し笑ってしまった。それ、俺のために取ってくれたんじゃないのかよ、と。
「まあ、俺は使わないからいいけど」
 握野はひとり言とともにベッドから立ち上がると、ほらよ、少し離れた場所にあるゴミ箱を取って木村の方に向けた。
「あ、もう少し離れてください」
「自分で拾えよ」
「なんで落っことすこと前提なんですか」
 不服そうに唇を尖らせた木村の手から放たれたティッシュペーパーは、きれいな弧を描きカーペットの上に落ちた。
「惜しいッ」
「そうか?」
 ゴミ箱までの距離は15cm以上はあるように見える。
「そうですよ。この前なんて、家で姉貴に煎餅の袋ぶつけて恐ろしい目にあいましたからね」
 姉の怒った顔でも思い出しているのだろう。木村は両腕を擦りながら小さく身を震わせた。
「良かったな。俺にぶつけなくて」
 木村と入れ替わるようにベッドに座った握野は、枕元に置いたリモコンに手を伸ばした。
 収納されていくロールスクリーンをなんとはなしに見送ってから、戻ってきた木村のために尻を浮かせ少し左によける。甘えたいのか肩に預けてきた木村の頭を無言で撫でながら、握野は明るさの増した部屋に視線をめぐらせた。
「ホカンス、だっけ。初めて知ったけどたまにはいいな、こういうのも。……まあ、突然人前でホテルに誘われた時は驚いたけど」
「うっ。その説はお騒がせしました」
 言って、木村は握野の肩から上げた頭を垂れた。
「英雄さん!ホテルに行きませんか!」  一ヶ月ほど前、CMの打ち合わせのためにメンバー揃って事務所に集まっていた時のことである。
 何やら熱心に携帯電話を見ていた木村の口から突如として発せられた言葉に、握野は飲んでいたカフェラテでむせかけ、握野の隣に座っていた信玄は読みかけの本――あまねにせがまれて今度マカロンに挑戦するつもりなんだ、と嬉しそうに本屋の紙袋から出して見せてくれたレシピ本をテーブルの上に落とした。
「あー、なんだ。そういう話はあまり大声で言うものではないと思うぞ。龍」
 落とした本を拾い上げながら告げた信玄のやや気まずそうな態度と、にらみつけるような握野の視線に何かを察したと見える。木村はぶんぶんと大きく首を振りながら、
「違いますよ!?」否定した。
「そういうのじゃなくて、えーっと、ホカンス! 二人はホカンスって聞いたことないですか?」
「ほかんす? 自分は聞いたことがないな。英雄は知っているか」
「いや、俺も知らねーな。なんだよそれ」
 手で顔を扇ぎつつ尋ねれば、意図せぬ方向に転がりそうだった会話を修正できたことに安堵したのだろう。木村は小さく息を吐き出してから、気を取り直すぞと言わんばかりに喉を整え、
「ホカンスって言うのはですねー」
 そこで言葉を詰まらせた。
「ホカンスって言うのは、ええと、ちょっと待ってください。あ、なるほど。ホテルでバカンスを楽しもうってことらしいです。ってちょっと、二人してなに笑ってるんですか! 俺だって最近知ったばっかなんですよ」
「笑ってねえよ。で、そのホカンスってのがなんだって言うんだよ」
「来月、英雄さんの誕生日じゃないですか。せっかくだし二人でのんびりできたらなーと思いまして」
「なるほど。いいじゃないか」
 誘われた本人よりも早く好反応を示したのは信玄で。握野は今は欲していないカフェラテを意味もなくひと口流しこむと、照れ臭さを隠すように自分の耳に触れた。
「つっても、スケジュールとか確認しないとだろ」
「それなら大丈夫ですよ。前々から相談されてましたから、お二人のスケジュールは調整済みです」
 いつ来たのかいつから聴いていたのか、資料の束を抱えたプロデューサーの穏やかで力強い声に、握野は目を瞬かせた。目を瞬かせ、信玄と木村を交互に見た。
「だそうだ。二人で満喫して来るといい」
 信玄の慈愛に満ちた眼差しがまぶしい。木村など今にもやったー!と叫びだしそうな勢いだ。
「じゃあ俺、予約入れちゃいますね」
 朗らかな笑みに見守られながらエラーと格闘をくり返し、予約を入れることおよそ一ヶ月。木村が自分で選んだというホテルは想像以上に広くて綺麗で洒落ていて、はじめ握野は木村が場所を間違えているのではないかと疑ったくらいだ。
「ところで英雄さん、そろそろ腹減りませんか」
 問われ、案配でも確認するように握野は自分の腹にそっと触れた。チェックインの都合で早めに昼食を済ませたこともあってだろう。確かに握野の腹は内側からそこはかとない空腹を訴えている。
「まあそうだな。……もしかしなくても、なんかあるのか?」
「ふっふっふ。どうでしょう」
「それもう何かあるって言ってるようなもんだぞ」
「じゃあ俺、ちょっと準備してくるので、いい子で待っててくださいね」
 触れるだけの口づけを残した木村がベッドルームをあとにして少し。握野は目を閉じると、ゆっくりとベッドに倒れこんだ。
(なんだよ、“いい子”って)
 遠くの方から聞こえてくる音を聞くともなく聞きながら、目にかかった前髪を払う。顔が熱い。自分の耳は今、目に見えて赤くなっていることだろう。握野は漏れ出しそうになる感情を抑えるように唇を結ぶと、木村のいる方向に背を向けようと寝返りを打った。
 ちょうど手元にきたスマートフォンを拾いあげ、画面をスワイプする。開いたままになっていた動画配信サービスを目的もなく眺めていた握野の目にとある邦画が止まったのは、「あなたにオススメ」と題されたカテゴリーを目で追っていた時だった。
 瀬戸内海にある小さな町と東京を舞台にした、小説が原作の恋愛映画。木村が相手役を務めたこの映画を握野は公開日の翌日に観劇し、帰りの電車の中で感想を送ろうとLINKを開いて、やめた。何を言えば良いのかわからなかったからだ。
 シークバーを動かし、適当なところから再生を開始する。近年注目を集めている若手監督の作品にオーディションで選ばれたこと。物静かで影のある青年という今までにない役を演じたこと。個性的で経験豊富な役者たちとの共演。それらすべてが木村にとって良い刺激になったようで、ロケは大変だったし悩むことも多々あったけれど、学ぶこともまた多かったと満ち足りた表情で語ってくれた姿が忘れられない。
「英雄さん、準備できましたよ」
「うわっ」
 不意に背後から声をかけられ、握野はびくりと肩を揺らした。
「あれ、何か見てたんですか?」
 咄嗟に隠そうとしたものの時既に遅し。握野の手からこぼれ落ちたスマートフォンの中では木村演じる青年がヒロインにキスをしようとしてやめるというシーンが流れていて。画面の中の木村が発した切羽詰まった謝罪は、
「恋人がすぐそばにいるのに、恋人が出てる恋愛映画を見るのってどんな気分ですか」
 現実の木村の声に打ち消された。
 木村が乗り上げてきたはずみで、ベッドが音を立てて軋んだ。握野に覆いかぶさる形でベッドに片手をついた木村の、自由に動かせる方の手が、どんな顔を向ければいいかわからずそっと息を詰めている握野の横顔を優しく撫でる。
 撫でて、一瞬宙をさまよって、握野のスマートフォンを拾い上げた。しばし静寂があたりを支配したのは、木村が停止ボタンを押したからだろう。
「英雄さん。ねえ、英雄さん」
 握野はつんのめる感覚に目を瞬かせた。名前を呼ばれたからではなく、木村が体重をかけるようにのしかかってきたからだ。
「さっきの、いじわるでしたね。ごめんなさい」
 重い、と文句を言おうとしたのも束の間。耳元で囁かれた謝罪の言葉に、握野はハッと目を見開いた。咄嗟に木村の方を見ようとして、けれども当の本人がのしかかっているがためにうまくいかず。握野は全身に力を入れると、木村を押しのけ体の向きを変えた。
 目が合った。なんて、目をしているんだ。木村の瞳は不安と後悔を湛えていて、握野は手を伸ばすと木村の髪をくしゃりと撫でてやった。
「別に。おまえが謝ることなんてないだろ」
「でも、英雄さんが嫌な気持ちになってたら嫌です」
「なってねえよ。それより、龍。起こしてくれ」
 そう言って、握野は木村の頭から離した手をその顔の前に差し出した。仕方ないなあ、とでも言いたげに木村の口角がわずかに持ち上がる。腕を掴まれ体を引き上げられ、握野は、木村の背中に腕を回した。
「ほら、準備できたんだろ。連れてってくれ」
「はい! 英雄さん、絶対喜びますよ」
「それはお手並み拝見だな」
「期待しててください」
 手を引かれるままにベッドルームから出た握野は、テーブルの上に広がっている光景を前にして、感嘆の息を吐いた。いちごだ。いちごをふんだんに使った菓子や軽食が、ケーキスタンドの上でまるで宝石みたいにキラキラと輝いている。
「すごいな、これ」
「喜んでくれましたか」
「ああ、もちろん。あたり前だろ。いや、ケーキでもあるのかと思ってたけど、まさかアフタヌーンティーとは思わなかったぜ」
 握野の言葉を受けて、木村がふふんと胸を張ってみせた。このホテルは木村が選んだと聞いている。木村が自分の喜ぶ姿を想像してあれこれ準備してくれたのかと思うと、握野はどうにも愛しい気持ちで胸がいっぱいになるのだ。
「ささ、どうぞ」
 握野は勧められるままに席につくと、木村が座るのを待ってから下段に置かれた小さなサンドイッチを口に運んだ。
「ん!」
 軽やかな生クリームが濃厚ないちごの甘さをよく引き立たせている。次いで食べたスコーンはクルミが良いアクセントになっており、木村にジャムつけすぎじゃないですかと少し引かれてしまった。
 料理に合わせていちごの種類を変えているのだろう。少しずつ味や食感が違うのがまたおもしろく、自然と頬が緩んでいく。
「龍、モンブランは食ったか。 すげーうまいぞ」
「へえ、じゃあ次はそれにしてみよっかな」
「おう。絶対龍も気に入ると思うぜ。て、なんかおまえニヤけてないか」
「いやー相変わらず幸せそうな顔して食べるなと思って」
 木村に指摘され、握野は自分の頬を指先で撫でた。
「仕方ねーだろ。実際うまいんだから。それより、このあとはどうするんだよ」
「え?」
 話題を変えようと試みた握野は、疑問を疑問符で返されたことに一抹の不安を覚えた。
「もしかして、特にないのか。まだけっこう時間あるぞ」
 仮に夕飯を七時と仮定して。アフタヌーンティーを食べ終わったところで、まだ数時間は猶予がある。このホテルはアクティビティも充実していると案内には記載されていたが、世間に二人の関係を秘匿にしている以上部屋から出るのは難しいだろう。アイドルという立場もある。
(映画をもう一本見る、はなんか違うし。他に何か……そうだ)
 握野は心の中で握った拳で手のひらを打った。
「なあ、龍。このあと一緒に風呂に入らないか」
「風呂!?」
 思いもよらない提案だったのだろう。木村の声が裏返った。彼が今、紅茶や菓子を口にしていなくて良かった。もし口にしていたら盛大にむせて目も当てられない事態になるところだった。
「そんなに驚くことはないだろ」
「いや、だって。英雄さんから誘ってくるの珍し過ぎて」
「あー確かにそうかもな。つーか俺はてっきりおまえが、いや、なんでもない」
 先に続けようとした言葉を呑みこんで、握野はゆるく首を振った。
 部屋の浴室を覗いた際に抱いた感想が、「龍と一緒に入ったら気持ちが良いだろうな」「もしかして龍は風呂の広さを加味してここを予約したのかもしれない」だったなんて、言えるわけがない。
 言ったら木村はどんな顔をするか。きっと喜ぶ。木村を喜ばせることは恋人としてやぶさかでないが、しかしそれ以上に恥ずかしさが勝ってしまう。
「てっきり、なんですか」
「なんでもないつったろ。たまには早い時間からのんびり風呂につかるのもいいなって思っただけだよ」
「俺とですか」
 握野の答えを知っていて、握野の言葉を待っている。木村の見え透いた態度に、握野は刹那椅子の背もたれに身を預け、
「そうだよ」
 冷めた紅茶を口にした。「悪いかよ」
「まさか! むしろ嬉しいくらいです。あ、じゃあ俺、風呂ためてきますね」
「栓が抜けてました、なんてことないようにな」
「まかせてください。へへ。おいしいアフタヌーンティーをじっくり味わって、そのあとゆっくりお風呂に入りましょうね」
 嬉しそうに告げた木村を見送ってから、握野はいちごのロールケーキに手を伸ばした。そうして口いっぱいに広がった優しい甘さに、ほうと息を吐き出した。
 幸せとは、こういうことを言うのかもしれない。
「何か言いましたか」
「え、いや別に」
 知らず知らずの内に口に出ていたのだろうか。握野は洗い場の風呂椅子に腰掛けている木村から目を逸らすと、視線を落とし、浴槽を満たしている湯を掬い上げた。少し角度を変えれば、肌触りのいい乳白色の湯が手のひらから滑り落ちていく。シャワーを止める音が響いて、握野は意識をそちらに向けた。
「待て待て」
 思わず声を上げたのは、木村が横ではなく縦に並ぼうとしてきたからだ。木村の予想外の行動に腰を浮かせた握野だっだが、浴槽が広いとは言え動ける範囲には限度がある。あれよあれよと言う間に引き寄せられ、木村の脚の間に収まってしまった。
「おい。なんで縦なんだよ」
「問題でもありますか」
「せっかくこの広さなんだぞ。こんなくっつかなくたって、もっとこう、ゆったり寛げるだろ」
「広いところでくっつくのが良いんじゃないですか」
 当然のように言い放って、木村は握野の首筋に顔をうずめた。
「俺と英雄さん、同じ匂いがしてるんですね」
「そりゃあ、そうだろ」
「うれしい」
 心底嬉しそうなささめごとに、抗議する気も削がれていく。握野は自分の体の前に回されている木村の腕にそっと手をやると、少し間を空けてから、「さっきの」と口を開いた。
「はい」
「恋人がすぐそばにいるのに、恋人が出てる恋愛映画を見るのってどんな気分ですかってやつだけど。正直、相手役の女優にちょっと嫉妬した。嫉妬して、でも俺は役じゃない木村龍の愛を知ってるんだぞって優越感を覚えた」
「な」
「な?」
「なんで今言うんですかー!?」
「声がでけーよ」浴室に反響した大きな声に、たまらず握野は両耳を塞いだ。
「あ、すみません。いや、でも、なんで今言うんですか」
「いや、質問に答えてなかったなと思って。で、俺の答えを聞いてどう思った?」
「……正直ちょっと興奮しました」
「おまえ、それこそ今言うことじゃないだろ」  握野は眉尻を下げると、「聞かれたから答えたんじゃないですか」と不服そうな声を漏らす木村の方に向き直った。乳白色の湯が波打って床に溢れる。伏せていた瞳を上げれば目が合って、まぶたに優しく触れた唇のこそばゆさに、握野は小さく身をすくめた。
 幸せだと思う。今この瞬間が。このあとに待っていることが。風呂から出たらおいしいごはんを食べて他愛もない話をしてキスをして、ベッドの中で二人、静かに身を寄せ合うのだろう。そうして迎える誕生日はきっと、どんな恋愛映画よりも幸せに満ちている。
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