濃藍に溶かす
駅の改札口を出て歩くこと少し。駅前の商店街を抜ければ、そこにあるのは閑静な住宅地だ。日付を跨いでいるにも関わらず明かりの灯っている家が多いのは、今日が金曜日で明日は休みという人が多いからだろう。
自分たち以外誰もいない道の上。信玄と木村の背中に少し遅れて続きながら、一瞬握野は駅の方を振り返った。本当ならば今頃、一人帰路についていたのかと思うと、なんだか不思議な感じだ。
そろそろお会計にするかと鞄を引き寄せた握野に、待ったをかけたのは木村だった。夕食と軽い打上げも兼ねて入った居酒屋での出来事で、特に魚がおいしい店だった。
「なんだよ? あんまり遅くなると終電逃すぞ」
「実はですね。ちょっと俺、行きたいところがあるんですけど」
「こんな時間にか」
握野は座布団のそばに置いていたスマートフォンを拾いあげると、時刻を確認し、画面を木村側にした状態で掲げてみせた。
「こんな時間に、です」
「それは、場所がどこかってのは、訊いてももいいやつなんだよな」
「え、はい。特には……あ! エッチなお店とかじゃないですからね!?」
「わかってるよ。つーか仮にもアイドルがエッチなお店とか言うなよ」
「だって、英雄さんが変に声を小さくするから。えっと俺が行きたいのはですね、と言ってもまだ本人に確認してないんですけど」
木村の瞳が窺うようにちらと動いたのを見て、握野は心の中で「あ」と小さな声をあげた。いや、心の中でと思ったのは握野だけで、実際には音として漏れ出していたかもしれない。
煌々と光を放っていたスマートフォンが、いつの間にか暗くなっている。木村の視線の先では信玄が空いた皿やらグラスやらをテーブルの端によけており、照明の絞られた薄暗い店の中、木村は体の向きをやや左に変えると、
「誠司さん俺誠司さんの家に行きたいです」
一息の間にそう言った。
「自分の家に? 今からか」
数秒の間をあけて、信玄が聞き返した。
「もちろん迷惑ならいいんです。時間も遅いし」
「まさか。迷惑なんかじゃないさ。ただ、知ってのとおり我が家はあまり広くなくてな。寝る時に少々窮屈な思いをさせてしまうかもしれない」
「大丈夫です。俺、どこでも眠れるので」
「はは。そいつは頼もしいな」
握った拳で軽く胸を叩いてみせた木村の横顔には、ほんの一瞬ちらつかせた不安などもうどこにもなく、応えた信玄の声には慈愛のようなものが浮かんでいた。気がする。
そんなこんなでお会計を済ませ、歩いて行った最寄り駅。それじゃあ俺はこれで、と二人とは逆のホームへと足を進めようとした握野を引き止めたのもまた、木村だ。
「なんだよ」
「英雄さん、帰るんですか」
「ちょっと端よるぞ。ここだと通行の邪魔になる。そのつもりだけど」
「えー!? なんでですかァ」
掴まれた腕と掴んでいる人物の顔を交互に見たのちに告げた答えは、木村からすれば不服なものだったらしい。わんと耳に響いた大きな声に、握野はたまらず顔をしかめた。
「声がでけぇ。お前、酔ってるだろ」
「酔ってません。ねえ誠司さん、英雄さんも行っていいですよね。誠司さん家」
「お、英雄も来るのか。歓迎するぞ」
あ、バカと止める間もなく話は先へと進んでいった。今日は信玄の家に泊まってく。電車の中で母親に送ったLINKには、しばらくしてから敬礼をしている犬のキャラクターのスタンプと迷惑をかけないようにという主旨の文章が返ってきた。わかってる。おやすみ。短く返してスマートフォンを鞄にしまった。にこにこと楽しそうにしている信玄を前にして、やっぱり俺は帰るよと言う気にはどうしてもなれなかった。
いや違うな。何度となく通ってきた道を二人の後ろに続きながら、握野は地面に目を落とす。木村に言われたから着いてきたわけではない。信玄が来て欲しそうにしていたから着いて来たわけでもない。握野は、握野自身が信玄と一緒にいたいと思ったから今ここにいるのだ。
家に帰るところなのか、それともこれからどこかへ出かけるのか。一台の車が大通りに向かって走り去って行く。その様子を目で追っていた握野の耳に、風に乗じた音が聞こえて来たのはその時で、
「英雄さーん」
不意に輪郭を持って届いた自分の名前を呼ぶ声に、握野は視線を進行方向に戻した。
いつの間に引き離されていたのだろう。少し前を歩いていたはずの信玄と木村が、立ち止まってこちらを見ている。握野は軽く片手をあげ二人に合図を送ると、「今行く」と足を早めた。
「悪い」
「気になることでもあったのか」
「いや。まあ、そうだな。たいしたことじゃないんだけど、車が通ってさ。こんな時間にどこ行くんだろうって、ちょっと気になっちまった」
「じゃあ、逆に車の人は英雄さん見て同じことを思ったかもしれませんね」
「あー確かに。つーか、先に行ってても良かったんだぜ」
二人が待っていたのは公園の入り口だった。ブランコと滑り台とジャングルジム。それから砂場が備えつけられた、どこにでもあるような普通の公園。時折、姪っ子であるあまねと遊びに来るというこの場所は信玄の住むアパートから近く、特等席だと言ってキッチンの窓から見させてもらった桜の美しさが印象に残っている。
「英雄さん、眠いですか」
「特には?」
「さっき、誠司さんと話してて」言葉を紡ぎながら、木村は門柱にそっと触れた。「公園によって行こうって話になったんですけど、英雄さんも行きますか?」
「公園に」
「ブランコに乗りたくなってしまってな」
なんでまた。言外ににじませた握野の疑問に答えたのは信玄だった。外灯の下、やや重心を右に傾け立っている信玄は、ずいぶんと楽しそうに見える。何がどうなってブランコに乗りたいという話に繋がったのかはわからないが、大方、酔っ払いのノリと勢いの成せる技と言ったところだろう。
「いいけど、はしゃぎすぎるなよ」
本当に大丈夫か?と不安になったのは、「わかってますよ」と応じた木村の声が、殊の外大きく夜の公園に響いたからだ。
「夜の公園ってちょっと不気味ですよね」
きょろきょろと辺りを見回しつつ、木村が言った。
「そうだな」
木村の言うとおり、日中の賑やかさなど嘘のようにしんと静まり返った公園には、不気味という言葉がぴったりだ。いつもならば気にもならない足音が、今はやけに大きく聞こえる。木村の隣を歩きながら、握野は思わず目を眇めた。外灯の明かりがぼんやりと浮かび上がらせている濃藍の世界の中で、自動販売機の発している白白とした光が眩しく目に突き刺さったのだ。
眇めて、通り過ぎようとしたところで握野ははたと立ち止まった。「英雄さん?」「適当に飲み物買ってくから、先に信玄のとこ行っててくれ」握野に釣られて足を止めた木村に先に行くように促し、自動販売機の方へと靴の向きを変えた。
「とは言え、こんな時間だしな。何にするか・・・・・・お、これでいいか」
小銭を投入しボタンを押す。それをくり返すこと三回。280mlのペットボトルを三本抱えて信玄と木村の元に向かって行った握野は、二人が並んでベンチに座っている光景を前に、あれ、と内心首を傾げた。
「長居するのもなんだと思ってさ。これ飲んだら信玄の家に行こうぜ。これ、龍の分な」
「ありがとうございます」
「デカフェもあれば良かったんだけどな」
「あはは。ルイボスかデカフェ、ですね」
「信玄も」
「ああ。すまない」
「……ブランコはもういいのかよ」
握野はベンチに近づき木村にペットボトルを渡すと、次いで、信玄の前に進み出た。信玄と目が合う。信玄は、握野を見上げたままやや気恥ずかしそうに微笑むと、おもむろに口を開いて、言った。
「それなんだが、自分は二人と話したかっただけかもしれない」
握野の口から、は、と声に成り損なったような、小さな息がこぼれ落ちた。手のひらをすり抜けたペットボトルが、重く鈍い音を立てて地面に転がった。
「悪い」
「いや、こっちこそ」
すぐに拾いあげ、信玄に手渡す。一瞬触れた信玄の手は温かく、血が通っているのだと、信玄は今確かに生きているのだと、当たり前のこと握野に実感させた。
山岳救助隊を題材にした映画『Perchers』の大ヒット御礼舞台挨拶。それが今日の仕事だった。本編の上映終了後に、あらかじめSNSで募集した質問に答えつつトークを展開させていく。というのがイベントの主な内容だ。作品について真面目に語ったり、撮影の裏話で笑いが起こったり。和気藹々とした雰囲気でイベントが進んでいく中、特に印象に残っているシーンを訊かれた信玄があげたのは、自身が演じる松雪郡司が雪崩に巻きこまれる一連のシーンだった。
『Perchers』はフィクションだ。あたりまえのことだが台本があり、結末も決まっている。頭では理解していても、モニター越しに二人のやりとりを見ている間、握野は不安で仕方がなかった。このまま本当に信玄は雪山に消えてしまうのではないか。そんな怖さすらあった。
木村も同じだったのだろう。だから信玄に会いに行った。
撮影を終えた都築から木村が信玄に会いに行ったと聴いた時、心の奥の方で「龍は強いな」と思ったことを覚えている。自分には、そして多分きっと唐橋にもできないことだと思ったからだ。
二人の間にどんな会話がわからない。わからないが、戻って来た木村の表情はどこか清々しく、前を見つめる真剣な瞳には確かな光が宿っていた。
「座らないのか?」
「どこに座るんだよ。ハハッ、さすがに狭いだろ」
ベンチの空いたスペースを手のひらで軽く叩く信玄の仕草に、思わず握野は顔をほころばせた。
「あ、じゃあ俺が立ちます」
「いい、いい」
あわてて立ち上がろうとする木村を制し、ペットボトルに口をつけた。ルイボスティーの独特な風味が舌に広がって、握野の喉を潤していく。喉を潤して、口の端を指先で軽く拭って、それから握野はゆっくりと口を開いた。誰かが忘れたのだろう。砂場に小さなバケツが転がっている。
「さっきの、嬉しかったよ。俺も、龍も、信玄と話したいと思ってたから」
「・・・・・・そうか」
握野と、握野の言葉を全力で肯定するかの如く首を縦に振っている木村を交互に見やり、信玄は静かに微笑んだ。信玄の胸元で、金属同士の触れ合うかそけき音が鳴った。
「次に会ったら、二人に話してみるよ」
『Perchers』の作中で信玄演じる松雪が、都築演じる芙蓉に言っていた言葉だ。
いつか、信玄も全てを話してくれる日がくるのだろうか。松雪のように。
無理に話さなくていい。全てをひけらかす必要はないと言う気持ちは、握野の掛け値のない本心だ。その一方で信玄がまだ抱えている隠しごとを、聴く準備も、受け止める覚悟もできているというのもまた本音で。全てのエゴを溶かすように、握野はそっと息を吐き出した。
濃藍に溶かす
