寂しがり屋たちの夜

 寂しがり屋たちの夜


 ジャケットを脱ぎ捨てネクタイを緩める。ソファに腰を下ろしひとつ息を吐き出す。疲労と安堵で沈みそうになる体を引っ張りあげると、銀時は座卓に放っておいたジャンプを手元に引き寄せた。
 せっかくのジャンプが発売する土曜日だったというのに、朝から忙しくてまだ一ページも開いていないのだ。というか買いたてほやほやだ。
 銀時は指の腹をすり合わせると軽く紙をしならせた。適当な箇所に親指を差し入れ、姿勢をやや前に倒す。ジャンプを開こうと構えたところでしかし、親指を引き抜き、小さく息を吐いた。
 中身が見えない程度に紙面をパラパラとめくり、整えるようにジャンプの底を座卓に二回三回と振り下ろす。ちらりと走らせた視線の先で、桃色のスカートがふわりと揺れた。
 なにを意識してるんだ。たかだか五年かそこら会わなかっただけの話じゃないか。銀時は自分に向けて心の中で苦々しげに悪態をつくと、至って自然に見えるように意識をしながらジャンプを開き、これまた自然に聞こえるようさりげなさを装いながら、
「……お妙んとこ泊まるとか言ってなかったっけ」
「姉御が、せっかくだから万事屋に泊まった方がいいって」
「あ、そう。……座んねーの」
投げかけた言葉に反応はない。銀時はこめかみを掻き、ろくに読んでもいないページをめくった。
「いや、別に? 別にお前が立ってようが座ってようが俺には全く関係ないけど? ただそのスカートがさっきからひらひらひらひら目障りっていうか、いまいちジャンプに集中できないっていうか」
「銀ちゃん、もしかして私が大人になったからドキドキしてるアルか」
「誰がてめーみたいなガキ相手に」
 銀時は、顔を上げたことを少しだけ後悔した。
 たかだか五年、されど五年だ。
 いつの間に脱いだのだろう。気付けば神楽は裸足になっていて、蛍光灯のもとにさらされた脚は白く、まるで内側からほのかに発光しているかのようだ。
 記憶にあるそれよりもすらりと長く、いくらか筋肉も増したように見える21歳の脚に少女から大人へ、その変化の一旦を垣間見た気がして、銀時はそっと視線を外した。外して、後悔を重ねた。
 おそらく脱いだばかりであろうストッキングが、丸まって床に落ちているのを発見してしまったのだ。
 銀時は自分のことを性的な面ではノーマルな人間だと思っている。確かに多少のSっ気を持ち合わせてはいるが、例えば眼球を舐めるとか鞭で叩くとか道具を使うとか、そういう、特殊なプレイをしたことは元よりしたいと思ったことも一度もない。
 ましてや相手はあの神楽だ。こんな、脱ぎたてのストッキングを見て背徳感を覚えたり、未遂とはいえ性的興奮を覚えかけたりするなど、死んでもありえないし、あってはならない。
 銀時はソファの背もたれに片腕を回すと、天井を仰ぎ、膨らませた頬からゆっくりと空気を吐き出した。吐き出して、仕切り直しだとばかりにジャンプに目を戻した。確かここまでは読んだはずだと捲ったページの先で、銀時はたまらず閉口した。
 少し前に連載一周年を迎えた異世界バトルもの。主人公が敵に向かって啖呵を切っているのだが、どうにも目が滑り、内容が頭に入ってこないのだ。そのくせ飛ばそうにも飛ばせず、何度も同じ箇所を目で追ってしまうのだから埒もない。
 銀時は座卓の上にジャンプを投げると、出もしない欠伸を噛み殺し、ソファに仰向けに寝転んだ。
 今日は朝から忙しかったから疲れているのだ。少し休憩しよう。自分を納得させるようにひとり頷き、目を閉じる。こうしていればそのうち眠くなるはずだと、意識をして規則正しい呼吸をくり返すこと三分、いや、五分は経っただろうか。目の奥が重くなり始め、夢へと続く扉を開こうとしたその矢先、
「銀ちゃん? 寝てるアルか」
 頭上から影が差し同時に声が降ってきた。
 ああ、寝てる。寝てるから放っておいてくれ。
 漆黒の闇の中、ドアノブに手をかけたまま、銀時は神楽に向かって空いている手を払ってみせる。それはあっちに行けという意志表示だったのだが、どうやら神楽には伝わらなかったようだ。きょとんと首を傾げるばかりで、一向に消える素振りを見せない。
 銀時はノブから手を離すと、眠っていることを強調するように、あるいはまぶたの裏の神楽を打ち消すように、閉じたまぶたに力をこめた。先ほどよりもいっそう規則正しい呼吸を心がけようと息を吸い込む。無視を貫こうと上下する胸に向けていた意識はしかし、軋んだソファによって、あっけなく現実へと引き戻された。
「……重いんですけど」
 目を閉じたまま抵抗を試みる。
「私たちも結婚するアルか」
 神楽の口から飛び出したのは思いもよらない、予想を斜め45度上回る言葉で、銀時は思わず目を瞬かせた。
「やっぱり、狸寝入りだったネ」
「誰かさんのせいで目が覚めたんだよ」
 一瞬止まりかけた息を吐き出しながら、神楽の指摘に嘘を返す。起き上がろうと力を入れた体はしかし、夜兎の腕力の前にいとも容易く敗北し、ならばせめてと逸らした顔は、こちらを向けとばかりに両手で頬を挟まれ元の位置に戻された。
 視線がかち合い星が散った。
 文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけ、一瞬で驚きに変わったそれを、すんでのところで唾と一緒に呑みこんだ。近い。あと少しで触れるところだった。
 跳ねた心臓をごまかすように、ソファーに体を沈ませる。二人分の重さに古びたソファーが悲鳴にも似た声をあげた。紫色の瞳の中にまぬけな顔をした男が一人映りこんでいる。
「私たちも結婚するアルか」
「なに? 結婚式に出席して、夢でも見ちゃった?」
 くり返された言葉に軽口を叩けば、「違うネ」神楽はそう言って小さく首を横に振り、「銀ちゃんが、寂しそうだったから」
 寂しくなりますね。
 一流のエイリアンハンターになるのだと、そう息巻いて神楽が万事屋を出て行ったのは、五年前のちょうど今頃のことだ。
 二人と一匹になった部屋にぽつんと投げ出された言葉に銀時が返事をしたのは少し間をあけてからで、静かになっていいだろ、そんな寂しそうな顔して言われても説得力ありませんよと銀時の肩を叩いていた新八も、いつの間にやら交流を深めていたらしい。
 結婚を考えている相手がいるのだと、至極真面目な顔で打ち明けられたのは神楽が万事屋を出て行ってからおよそ三年後のことで、そうこうしているうちに同棲が始まり、本格的に道場の復興を目指すのだと、そのための資金を集めるのだとちゃんとした会社に就職を決め、あれよあれよという間に万事屋は一人と一匹になった。
「――……俺には、お前の方がよっぽど寂しそうに見えるけど」
「今の話じゃないアル」
 知ってる。言おうとして、銀時は口を噤んだ。神楽の紫色の虹彩が、光を反射した宝石の如く、うるりと輝き一回転したのだ。冷えてしんとした空気を吸い込む音がして、刹那、なにかを堪えるように神楽の唇が閉じられた。
 秒針の進む音だけがしばし静かな部屋にこだまする。先ほど目が滑って仕方のなかった漫画のシーンが今になってインプットされていく感覚に、銀時は座卓に向けて腕を伸ばしかけ、伸ばしかけた腕は目的に届くことなく空中で停止した。
 神楽の唇がやにわに開き、静かに形を変えていく。
「銀ちゃん今日ずっと寂しそうだったネ」
 ぎんちゃん、と発せられた声は喉の奥でわずかに震え、そのくせやけに鮮明だ。銀時は停止させたままでいた腕を下ろすと、体内の二酸化炭素をすべて排出するかのように、長く深く息を吐き出した。
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないもん」
「よしんばそれが本当だとして、それがなんで結婚に繋がるんだよ」
「結婚したら、家族になれるアル」
 ソファが、ひときわ大きな音を立てて軋んだ。肩越しに触れる髪がこそばゆい。鼻腔をくすぐる花にも似たこの匂いはなんだろうか、なんて、つい関係のないことに神経を傾けてしまいたくなったのは、神楽の声が今にも泣き出しそうに震えていたからだ。
「家族になったら寂しくなくなるネ」
 いっそう声をくぐもらせながら、神楽が言った。そんなこと。喉元まで出かけた否定を押し込み、唇を引き結ぶ。五年ぶりに触れた頭は変わらず丸く、髪は適度に硬く滑らかだ。
「……今度、新八も誘って飯でも行くか」
「……うん」
 神楽の身じろぐ気配に、銀時は静かに目を閉じた。
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