いつか沈む

 いつか沈む


 今回の標的だと差し出された写真には、一人の男が映っていた。年のころは三十代半ばほどだろうか。やや角張った顔に太めの眉、上背があり中肉で、木賊色の羽織がよく似合っている。
「これは」
「百塩屋の若旦那だ」
誰ですかと訊ねるよりも早く副長の口から告げられたのは、大福で名高い和菓子屋の店名だった。言われ、改めて写真に目を落とす。なるほど。言われてみれば確かに、男のいかにも人の良さそうなどんぐり眼は、以前テレビで見た現当主にそっくりなような、気がする。
「天人から密輸した武器を浪士どもに流しているとの嫌疑がかかっている」
 思わず零れそうになった驚きを、寸でのところで唾と一緒に呑み込んだ。
 百塩屋と言えば大福で有名なことは前述のとおりだが、創業はおよそ100年前、幕府官僚にも贔屓にしている者が少なくないばかりか、将軍に献上されることもある老舗である。
「そ、それで、俺は何をすれば」
「見張りだ」
 気を取り直したつもりだったのだが、促されたようで癪に障ったらしい。俺が言い終えるよりも早く、俺の頭を拳で軽く小突きながら副長は言った。
 煙草の臭いが鼻腔をくすぐる。吐き出した息が白い。
 あの時、俺の手から写真を引き抜いたあの時、副長の眉間の皺はいつにも増して深く刻まれ、その表情は、ほんの一瞬だったが確かに苦々しげに歪んでいた。
「……転海屋の件でも思い出してたかな」
 ひとりごち、天井に備えつけられている切れかけの電球に目を向ける。どこからともなく入り込んできた冷気が首筋を撫で、「さむっ」俺は半纏の袖口に両腕を突っ込み、亀のように首をひっこめた。
 少しでも暖をとろうと、足の指同士をこすりあわせる。むろん、摩擦で生じた微弱な熱が全身を温める、なんてことはなく、それどころか、試しに吐き出してみた息は先ほどよりも不透明さを増している気さえするのだからどうしようもない。
 十一月も半ばを過ぎた。このまま任務が長引くようなら、暖房器具の購入を検討した方がいいかもしれない。
 机とせんべい布団に空間のほとんどを占拠された部屋をなんとはなしに眺めながら、ここが持ち場だと案内された日のことを思い出す。
 あれはまだ十月に入ったばかりの、薄曇りの風の穏やかな日のことで、俺に鍵を手渡しながら副長はなんと言っていたか。忘れもしない。副長は静かに煙草なぞ吹かしながら、「そう時間はかからないだろう」と言ったのだ。
 ところが、実際にはどうだ。前述したとおり今は十一月も半ばを過ぎており、つまり、俺はこの狭く古びた四畳半で、かれこれひと月以上も隙間風に悩まされていることになる。
 事件は謂わば生き物だ。
 例えば浪士の数が事前の調査よりも増えている、例えば奇襲をかけたつもりが待ち伏せされている――もちろんこれらは失態に変わりないのだが、今は置いておこう――ありとあらゆる現場において、思いもよらぬ事態に見舞われることはままあることで、副長が禁煙に成功するよりもずっと高い確率で起こり得る現象だ。そもそも、副長が口にしていた時間はかからないという言葉自体推測の域を出ず、むしろあれは時間をかけさせないという副長の決意の表れとでも言うべきなのだろう。
 分かっている。今こうして俺がこの場所に拘束されていることが仕方のないことくらい、頭では分かっているのだ。
 では何故こんなにも無性に腹が立つのかと聞かれれば、それはひとえに、このじわじわと足元から這い上って来る冷気のせいに他ならない。
 ああ駄目だ考えていたら余計に腹が立ってきた。前言撤回。少し歩いたところに電器屋があったはずだ。定時連絡を済ませたらさっそくファンヒーターでも物色しに行こう。俺は決意も新たに半纏の紐を結び直すと、西側に取り付けられている小窓に目を向けた。
 いつ見ても薄鈍色のアルミサッシが寒々しい。この部屋に初めて足を踏み入れた瞬間から今日に至るまで、時折現れ、腹の底からふつふつと湧き上がっては消えていく寂しさのようなものの原因のひとつに、この小窓があるような気がするのは何故だろうか。
 日当たりの悪さゆえか、塗装が剥がれかかっているためか。
 出す気のない答えを自問しながら、「さてと」俺はいよいよ窓に手をかけた。ひび割れた雑音交じりのチャイムが鳴ったのはその時だ。
「どちら様ですか」
 確認しなくとも大方の予想はつく。この部屋を訪れてくるのは一人くらいしかいないからだ。ほら、やっぱり。ドアを開けると思ったとおり、そこには口角を引き結び眉間に皺を寄せ、煙草を咥えた副長の姿があった。
「何かあったんですか」
 副長は質問に答えることなく無言のまま俺の横を通り過ぎると、俺が開け損ねた窓に手をかけ、横に押し開いた。
「寒ィな、ここ」
「年季が入ってますからね。茶でも飲みますか」
 返事がないのを肯定と捉え、薬缶を火にかける。五度目の挑戦でようやくガスコンロが反応した時には既に副長の姿は窓辺にはなく、それにしても冷えますねなどとおべんちゃらを垂れながら閉める素振りで覗いた外はいつもと変わらず静かで、俺は人知れず安堵の息を吐いた。
 古びた波止場に波が打ち寄せている。海の色はどんよりとした藍色だ。
「……相変わらず動きはありません」
 振り向きざまに報告をすれば、虚を突かれたような顔の副長と目が合った。しかしそれも一瞬で、副長は胸ポケットから二本目を取り出すと、火をつけ、床に目を落とした。
 その薄い唇から細く煙が吐き出される。こちらが息苦しさを覚えるほどの長い時間の後、ようやく口から煙草を離した副長から出てきたのは、そうか、という短い言葉で、もしや他の場所で何か動きがあったのだろうか。
「あの、」
 そこで初めて俺は、副長を立たせたままでいることに気が付いた。
「あ、すいません」
「気にするな」
 布団を片付けようとした俺を片手で制し、副長はまたも煙草をくゆらせる。なんとなく居心地の悪さを感じて、薬缶の様子を見に行こうと部屋を横切ろうとしたその時、副長がおもむろに口を開いた。
「数日前、ここから50メートルほど離れた浜に、身元不明の水死体が上がったことは知ってるな」
「はい」
「その仏の身元が、今朝方判明してな。……百塩屋の若旦那だ」
「えっ」
 俺が驚きの声を上げるのとほぼ同時に、薬缶が悲鳴を上げた。何か動きがあったのだろうかと思いはしたが、これはちょっと予想外だ。布団を雑にまとめ、端に押しやり、副長に座布団と茶を勧める。
「詳しいことは調査中だが、状況からして自殺とみて間違いないだろう」
 座布団にどかりとあぐらをかき、茶を一口すすってから副長は言った。
「死因は」
「溺死だ」
「他殺の可能性はないんですか」
「山崎、余計な詮索はやめろ」
 上から捜査を打ち切れとのお達しがあったのだろう。やまざき、と名前を呼ぶ声は低く掠れ色を失っている。
 そのくせ、その瞳には憤りの光が宿っていて、副長がそう簡単に要求を呑むとは思えないから、俺が暇を持て余していた間、もとい仕事に精を出している間に文字通りいろいろあったと見た方がいいかもしれない。
 ああ、要求を呑んだフリをして、次の策に移行しているという可能性も考えられるな。
「早めに荷物をまとめておけ。今夜中にここを空けることになってる」
「え、ああ。はい」
 湯呑が置かれる音につられるように俺は頷いた。見れば、いつの間にやら副長の湯呑は空になっている。俺は残っていた茶を一気に飲み干すと、床に片手をつき立ち上がった。そしてそのまま窓辺まで移動し、アルミサッシ手をかけ、横に押し開いた。
 肺いっぱいに潮の香りを送りこむ。日に日に増していく寒さにあれだけ辟易していたのに、いざ終わりを告げられたら途端に寂しさ覚えてしまうのは何故だろう。
「俺が死んだあかつきには、遺体は海に沈めてください」
 後頭部に視線を感じながら滑り出てきたのは自分でも思いもよらぬ言葉で、けれども同時にそれは本心であると、生まれるずっと前から願っていることなのだと漠然と理解した。
「死ぬ予定でもあるのか」
「ありませんよ。もしもの時の話です」
 振り返り、微笑んでみせる。自分で自分の顔を見ることは出来ないが、きっと今、俺は知らない人の顔をしている。百塩屋の若旦那の顔が思い出せない。副長と目が合った。
 副長はほんの一瞬驚いた顔をして、それから不自然なしぐさで視線を逸らし、何かに急かされているように煙草に火をつけた。
 薄ぼんやりとした煙が外に向かって流れていく。そうだ。茶をいれようと思ったんだ。俺は窓を閉めようと手を伸ばし、最後にもう一度海を見た。いつか沈むかもしれない海を。
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